橋羽で創建700年、家康にもご縁がある妙恩寺は日蓮聖人の孫弟子日像上人が開いたお寺です。

その700年を記念して発行された「うちのお寺は妙恩寺」から、妙恩寺歴代住職の足跡を辿りながら起稿した文を元に、妙恩寺の歴史をお伝えいたします。

妙恩寺の歴史・・・まず始めに「まとめ」からお伝えします

妙恩寺は最初に、日蓮聖人から京都布教を託された日像上人と、その兄弟の妙恩尼と日蓮聖人の教えを直に触れて篤い信仰心を持っていた金原法橋の三名のドラマチックな出会いからスタートしました。
建物は大堂伽藍並び立つものではなく、金原家の邸内にひっそりと建っている小さな建物から始まりました。
その後は、金原家の中から住職がでて次第に寺としての体裁が整っていきます。
十一代目の時には徳川家康との関係からより財政基盤が安定し、東海道 天竜川河畔の法華の大寺としてスタートすることになります。

江戸時代になると、学僧タイプの住職が増えますが、歌の達人・筆の達人等個性豊かな住職も誕生します。
先々代や先代から「東の瑞輪寺(東京・谷中)と西の妙恩寺」と聞かされた触頭(ふれがしら)と言って、身延山から出された様々な命令・書状は直接一ヶ寺ずつに届かず、まずは妙恩寺に届き、妙恩寺住職が周辺寺院に通達する役目をもっていたこともあり、この時代には法華の寺の中心的存在にもなっていたことが推測できます。
キリスト教禁止や宗門人別帳等の国からの政策等により、いわゆる檀家制度が始まり、妙恩寺も齋藤氏・村越氏等の一族が檀信徒となり、それも元々法華に縁のある一族の入檀に、七堂伽藍を具える大規模寺院へと変貌しさらに周りに四つの塔頭を具え末寺も増え、三十六世日満上人のころの江戸の末期には、その住職のことを「御前様」という俗に「ごぜんでら」との格式を確固たるものにしてきました。

明治になると、土地が無くなるなど経済的基盤をとられ、度重なる住職の交代に妙恩寺は疲弊し、荒寺になってしまいました。
天竜川の氾濫や地震等、追い打ちをかけるような事態にもなりましたが、金原明善翁等の篤信者と五十代目の活躍によりなんとか息を吹き返します。
このころの妙恩寺は、外へ外へと布教の足を延ばしています。
初代の日像上人の京都布教にならい、浜松の街中や東京へも活動拠点を伸ばしていきます。
妙恩寺内の布教も活発化し、春の千部会などは近隣の人々や末寺の檀信徒までが参列するような活気になっていました。
千部会の行程表を見つけましたが、お経とお説教が交互に一日中行われているものでした。
古い檀家さんたちの話では出店も出ていたと言いますから、現在とは比較にならない程の行事を行うまでになっていたようです。

毎年、少しずつの手入れが長持ちをさせる秘訣ですが、戦争をはさんだため行きとどかない修復。
またその修復も大規模になるものが多く。往時の姿に戻すのに約半世紀かかったことになります。
目に見える修復を先行させたため、宝物の手入れに至っては、大正時代に四十八世がまだ小僧時代の五十世きたはらのごぜんさんと共に台帳を作って以来、なんの修復もされない事態が続いていました。
寺観一新はされましたが、後回しにされてきた宝物の修理や崩れつつある檀家制度・墓問題等、古きを守りながらも大きく一歩を進めなければならない時期にきているのが今日の妙恩寺と言えます。

歴代住職からみる妙恩寺七百年は、その時の住職が其の時の社会情勢を見極め、常に先手を打ってきたように見えます。
その基本は、やはり初代住職 日像上人の京都布教における情熱等をこの浜松の地に残していかなければならないと言うことでもあり、その布教の熱意が多くの周りの人達をとりこんできた事が、「妙恩寺は大きなお寺だ。格式が高い寺だ・・・」檀信徒の皆さんはそんな妙恩寺に対し、自慢に思い・誇りに思ってきたのです。