そして現住職に至る

五十三世 本康院日清上人  (ほんこういん にっせいしょうにん)
山澤 英正(やまざわ えいしょう)と言い、明治二十八年一月十三日 愛知県海部郡甚目寺町萱津にて山澤佐吉、後の龍音院日栄上人(山澤照運)の子として産まれる。
日栄上人が愛知県・観音寺(現在不明)から浜松市浜北区にある恩光寺二十八世として入寺に伴ってやってくる。
最初は清鉦と言ったが、十四歳にて愛知県額田郡 長満寺住職 渡辺英明上人に剃髪を受け、明治四十三年に妙恩寺五十世 北原観朗上人の弟子となり、英正(えいしょう)と名乗るようになりました。
浜北区平口 妙蓮寺住職、周知郡森町 本立寺住職をへて昭和三十五年三月に妙恩寺住職となりました。

きたはらのごぜんさんが二十九歳で英正十五歳の弟子だったと言うことになります。
本人から聞いた話では、一番弟子であり二番弟子が五十二世の星野上人であったとのこと、これが五十一世と五十三世と二度の妙恩寺住職として名を残す理由の一つになったようです。

「毎日、森の本立寺から妙恩寺が燃えてないかどうか自転車で見に来たものだ。大田川を自転車をかついで渡ったのだ」
きたはらのごぜんさんの文字の勢い等から察するに、戦争が激化していた時期には、地元の弟子達が代わる代わる妙恩寺を守る為に動いていたようです。
私も小さい頃、以前の庫裡の座敷に焼夷弾が刺さった瓦が飾ってあったことを記憶しています。

特に七月二十九日の空襲はひどかったらしく、先に書きました法雲寺・常住院の全焼するなか、東海道本線の天竜川鉄橋を狙う艦砲射撃の流れ弾が妙恩寺の本堂屋根に穴を開けたのだと聞かされました。
こうした努力もあったのか妙恩寺本堂は焼けることなく残りました。
東京浅草経王会も全焼し、星野上人が浜松へやってこられます。
お寺は、その昔師匠から、弟子へとつながる事を慣行としてきました。

金原一族の中から住職が出ていた時代を経て、三十六世の日満上人以降四十五世のころまでは、日満上人の弟子の系譜でつながっている。
今は、四十八世日明上人の弟子の系譜でつながっていると考えられます。
日満上人の系譜は瑞○院とつきます。
日明上人の系譜は本○院とつきます。

四十八世日明上人は、和歌山から出られ妙恩寺住職になっていますが、この末弟としてきたはらのごぜんさんが和歌山からついてきています。
青年になり、東京へ出た折に兄弟子達が居た事は先にも書きました。
東京の系譜と浜松の系譜に分かれていたのでしょう。
話し合いが行われ、星野上人が静岡の本山へ栄転されることになり、山澤英正が再び妙恩寺住職になったようです。

日誌には、戦争・艦砲射撃・昭和十九年の地震・昭和三十四年の伊勢湾台風で歴代廟の松が倒れ、(以前常経殿の南にあった)七面堂の屋根を破損したりしたものが、そのままになっていて、合計十三棟の大修理を必要としていた。
昭和三十五年に、入寺して以来修復に明け暮れたと言うことが書かれている。

私が知るのは、最晩年です。
前回、お稚児さんを出した時に幼い私が代表で、「祭文」という文章を読むことになり、御隠居さんになっていた英正とマンツーマンで指導を受けた。
大池のほとりの廊下にて正座をさせられての練習。
小柄で九十歳にもなろうかという老人からこんな大きな声が出るものなのかという声。

「ちが~う!」

おかげで三十年経った今も「瑞雲たなびき春うらら~」頭の片隅に残っています。

後で聞くとすでに、声がほとんど出ない為に振り絞った為に、怒鳴り声のように聞こえたのだと言われました。
古い檀家さん達から、「英正さんは、坊さんらしい坊さんだった」と形容して言われますが、私には、

「わしは、浜松ではじめてバイクに乗ってお経周りをした坊さんじゃ。新聞にも紹介されたんじゃ」

と言い、夏でも火鉢の火をつけてお茶を飲んでいて、たばこの空き箱にチョコレートを詰込んでいる。
大池の錦鯉に餌をやり、当時あった「御前様の部屋」前にあった、ちいさな池にいる金魚達に餌をやっている。
いつ行っても「御前様の部屋」にいる。そんな住職にしか見えませんでしたが・・・。

昭和五十九年七月九日 九十歳にて亡くなりました。在住二十四年

五十四世 本法院日薫上人 (ほんぽういん にちくんしょうにん)
山澤 観正(やまざわ かんしょう)と言い、大正十年八月二十六日東京浅草に産。
後の静岡・世尊寺住職 依田海蓮上人の長男。慶一という。

昭和二十二年に五十三世日清上人の養子となる。
昭和二十五年慶一から観正へ改名。
昭和三十五年浜北区平口の妙蓮寺住職をはじめ世尊寺代務住職を務め、昭和五十八年妙恩寺住職になりました。
在住二十五年、他寺の住職を務めていながら、ほとんど妙恩寺にいたことになりますので、妙恩寺に居た年数は五十年近いということになります。

いついっても「御前様の部屋」にいた五十三世と違い、いついっても「いない」御前様の印象が強い住職でした。
その姿は、今は無い七面堂か檀信徒の家でした。

五十世の頃から比べて檀家数はほぼ倍に増えたにも関わらず、弟子は無く激務だったと思われます。
最初に五十三世と共に妙恩寺に入ってきた折は、檀家名簿なるものがなく、手さぐりで御経に周ったと言います。
御経を唱えて、最後にお題目「南無妙法蓮華経」と唱え始めると、自宅の方が飛んできて「家は日蓮宗じゃない!」と何度か言われたそうです。

戦争からの復興で、五十三世が修復を重ねたとはいえ、私の記憶では雨が降ると雨もりする本堂で、たらいを持って右往左往している御前様の姿を思い出すくらいになっていました。
庫裡も西区志都呂町にあったと言われる代官屋敷を移築したと言われ、趣きはありましたが、そこらじゅう隙間だらけでどこに居ても、本堂の木柾をたたく音が聞こえたものでした。

五十三世に対して「観正さんは動いていないと気が済まない坊さんだった。普請好きな坊さんでもあった」と言われます。
本人に聞いたところ、

「わしは普請好きではない、だれかがやらなきゃいけないから、それならわしの代で済ませておこうと・・・。」

たしかに動いていないと気が済まないのは本人も認めていました。その行動は黙々と淡々とこなすと言うことでした。

住職就任祝いとして(本人談)位牌堂を新築することから始まり、本堂・庫裡・山門・鐘楼堂・開山堂と次から次へと修復・新築を重ねました。
残す常経殿も計画を終え、準備万端に妙恩寺の七百年祭を自分の代でやると宣言していましたが、平成二十年七月四日 八十八歳にて亡くなりました。

五十五世 本覚院日英  (ほんがくいんにちえい)
現住職