昭和に至るまでの歴代

十二代 了雲院日登上人 (りょううんいん にっとうしょうにん)
在住二十年 寛永十二年 一六三五年 九月十日に亡くなっている。
日豪上人直弟 寺島・妙教寺を開創 位牌には甲州産とあり。
圓頓寺縁起には、加藤肥後守清正公の子とあり、妙恩寺再鋳造前の梵鐘の造立主に身延山第二十一世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちかんしょうにん)鐘銘ありとしるす。
江戸時代に入り、三代将軍 徳川家光の時代になっている。
加藤清正の子ということにびっくりするが、すでに圓頓寺は無くこれ以上の調査は不可能だが、現在鐘楼堂のとなりの清正堂(せいしょうどう 加藤清正を祀る)はこの地区では、めずらしくしかも江戸時代の妙恩寺絵図では、権現堂(ごんげんどう 家康を祀る 東照宮・東照霊屋)と名を変えている時期がある。
建物の瓦には妙恩寺唯一の葵の御紋(他は丸に二引きの寺紋)を頂き、中の向かって右に歴代徳川将軍の位牌があり、正面に加藤清正像を祀っている。
日蓮宗的には、熱烈な信者であり神格化され九州、特に熊本では「せいしょこさん」と言って慕われ、崇められているが、この浜松は江戸幕府の要所。
出世城と言われ幕府の要人になるひとが多く出た場所です。
ご存じ加藤家は江戸幕府により御取りつぶしになった家です。
それを表だって拝むこともできなかったのでは?
明治以降の絵図になると権現堂は清正堂と記されている師匠の日豪上人と家康との関係と自分の出生と信仰を考え、複雑な祀り方をしたとも考えられます。
十三世 円詔院日閑上人 (えんしょういん にちかんしょうにん)
寛永十九年 一六四二年 二月二十八日に亡くなっている。野辺の妙満寺開山
十四世 了性院日遥上人 (りょうしょういん にちようしょうにん)
在住四十年 元禄九年 一六九六年 十二月二十二日に亡くなっている。
十五世 真海院日護上人 (しんかいいん にちごしょうにん)
九月十二日に亡くなったという記載しかない。
十六世 義光院日空上人 (ぎこういん にちくうしょうにん)
在住二十年 元禄元年一月十日に亡くなる。亡くなってから住職が交代するわけではないので、十四世が長命だったということがわかる。徳川綱吉の時代。
十一世日豪上人同様、中興(ちゅうこう)の記載がある。
本堂の仏像を造立 元禄六年七月七日奉安とある。
昭和四二年で二百八十年目のメモ書きがある。
現在、本堂で使われている仏像は平成二十二年段階で三百二十年余経っていることがわかる。
半鐘並びに鰐口鋳造とあるが大東亜戦争供出の記載があり現存しない。
浜北平口の妙蓮寺 阿多古の長石寺開山
十七世 大恵院日解上人 (だいけいいん にちげしょうにん)
在住四年 元禄十二年 一六九九年 九月十四日に亡くなっている。
以下はあまりに達筆すぎて読めず。
三つの手元史料から学識豊かで当時の全国さまざまな僧侶教育機関にて講義をすることを専門にしていたようです。
上総国(千葉県中部) 魚津・妙覚寺住職の記載もあり。
十八世 紫雲院日逢上人 (しうんいん にっぽうしょうにん)
在住十五年 享保四年 一七一九年 五月二五日に亡くなる。徳川吉宗の時代。

「手書き日逢」と呼ばれ達筆であったらしい。
在住中、七面堂、宝塔堂建立
宝塔堂は現在無く、いつまであったかもわからない。
七面堂は、私の幼少期にはあったので今から三十年程前までは現存していた。
過去帳開録とある。


この住職以降の過去帳記録があることになる。
金原本家等の特別な場合を除き、徳川吉宗時代からの戒名を保管していることになる。
どこのお寺でもだいたい同じことが言えます。
これは、江戸幕府の政策で寺請制度 宗門人別改帳などキリスト教など禁教政策の流れの中で、ようするに檀家制度がこのあたりから始まり、全国に浸透してきたころと言えます。
ちなみに妙恩寺の過去帳は私の手元の物で第十三号となっています。
すでに崩壊しつつする物もあり、早急に手を打たなければと思っています。
御曼荼羅や遺墨数点があることになっています。

十九世 本妙院日逞上人 (ほんみょういん にっていしょうにん)
正徳二年 一七一二年正月十八日に亡くなっている。加歴
加歴とは、実際に住職として在住していなかったが、何らかの理由でその寺の住職として名を残すことになることを歴代に加えるという意味で、加歴という。
十九世がどのような理由で歴代住職に名を連ねることになったかは不明。
二十世 遠照院日沾上人 (おんしょういん にってんしょうにん)
在住十五年 享保十九年九月六日に亡くなっています。
歌人 別の名として日総という。
享保九年八月十八日に妙恩寺にて和歌会を開き主役を務める。
二首記載があるが一つは読み切れない。

古寺の月
さやけしの 軒の松風 鐘の音 澄み渡る寺の 秋の夜の月

尋紅葉
秋といへばまた木に○○・・・・・尋ねても○山の紅葉ば

この住職の書かれた御曼荼羅御本尊が鶴見 齋藤に有と書かれていますが、どの家かは特定できていません。
現在の沼津市にいた、臨済宗中興の祖(衰退していた臨済宗を再び盛んにした人)と呼ばれる白隠禅師(はくいんぜんじ 白隠 慧鶴・はくいん えかく)と交流があり、白隠禅師から「南無妙法蓮華経」の一遍首題を頂いています。
又聞きでありますが、この一遍首題は三幅しかなく、ひとつは別のお寺に、ひとつは出身地の沼津の子孫に、もうひとつがこの妙恩寺にあると聞いたことがあります。
かつて臨済宗の僧侶に「白隠禅師が書かれたお題目の字が日蓮宗にあると聞いたがどこにあるのか」と聞かれ「うち(妙恩寺)です」と答えたところ「そんなはずないだろ!」と叱責された記憶があります。

二十一世 玄明院日成上人 (げんみょういん にちじょうしょうにん)
在住一年 享保十一年四月九日に亡くなっている。 他に記載なし
二十二世 一中院日如上人 (いっちゅういん にちにょしょうにん)
在住十一年 宝暦三年 一七五三年 七月一日に亡くなっている
大阪 堺の生まれ 身延山の○古庵主 正住院日中上人附弟とあり。
身延で講義をする傍ら他寺の住職も務める。徳川家重の時代
二十三世 蓮実院日報上人 (れんじついん にっぽうしょうにん)
在住半年 天文二年 一七三六年 十一月七日 他に記載なし。
二十四世 蓮寿院日泰上人 (れんじゅいん にったいしょうにん)
在住六年 寛保三年 一七四三年 二月一六日 四十四歳で亡くなっている
現在の山梨県南巨摩郡富士川町に産まれる。 身延にある学校(檀林)で講義をされていた。妙恩寺大鐘再鋳造主(大東亜戦争に供出 昭和十六年十月)庫裡(住職が普段いるところ)再建
二十五世 仁譲院日淳上人 (にんじょういん にちじゅんしょうにん)
在住十二年 宝暦四年 一七五四年 一一月十九日に亡くなっている。
本堂再建発起 総費用六百両のうち二百両を提供する。
二十六世 大慈院日啓上人 (だいじいん にちけいしょうにん)
在住九年 宝暦十三年 一七六三年 七月二十七日に亡くなっている。
二十五世の遺弟として本堂再建成就 工期七年。

現在の本堂はこの時の本堂が元になっている。
改修を重ねているとはいえ、二百五十年程は経っていることがわかる。
浜松市南区鶴見町には、齋藤家が多く存在しますが、先々代から現本堂の柱全てをこの鶴見の齋藤一族が寄付をしたと聞かされています。
今回、本堂旧棟札に施主齋藤氏の文字が読み取れたので間違いないでしょう。

東区長鶴町にある檀家の過去帳には「鶴見・齋藤を除き金七両寄付」の文字。
本家筋に当たる齋藤一族の負担は、質素倹約を旨とした徳川吉宗以降での負担としてはいかばかりだろうかと思います。
これ以降、齋藤一族は金原一族と共に妙恩寺の二本柱として護持の任に当たっていると歴代住職が伝えています。
この齋藤一族がなぜ妙恩寺の檀家に多いのか?

鶴見の齋藤もいくつかに分かれていると聞きますが、その本流に当たるのは戦国時代の美濃(岐阜県)の齋藤道三という戦国大名にさかのぼります。
齋藤道三は日蓮宗の信徒であったと言われています。
事実、齋藤道三の祖父は京都の本山・妙覚寺の僧侶であったとされ、また道三の息子にも日饒(妙覚寺十九世住職)、日覚(常在寺六世住職)といった日蓮宗僧侶がいます。
史実では、齋藤道三は美濃の戦国領主として天文二十三年(一五五四年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治二年(一五五六年)四月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。となっています。

齋藤道三が子の義龍と義絶した理由について、道三が義龍よりも他の弟達を可愛がり、一度は譲った家督を他の弟に変えようとしたことが、義龍の耳に入った為、弟達を殺して道三に対して挙兵したと言われています。
僧侶になった兄弟・織田信長に嫁いだ帰蝶・きちょう(濃姫)を除き、孫四郎(龍元、龍重)・喜平次(龍之、龍定)・利尭(利堯、玄蕃助)・長龍(利興、利治)、がこの兄、義龍の標的になったわけですが、その中の孫四郎がこの浜松の地に逃げ延びて来たと思われます。

妙恩寺に残る家ごとの過去帳には、この齋藤本家の家名の欄に孫四郎と書かれ、何代にもわたり、その当主が「孫四郎」の名を継いで名乗っていることが記載されています。
推測するに、京都の弟達からの推薦があったかもしれませんが、日蓮宗にすでに縁のある一族が浜松に堕ち延び、家が再興され妙恩寺の外護者として本堂再建に最も力をいれてくださったのでしょう。
さらには、少し前に、村越宗家の欄に明暦の大火(明暦三年一月十八日 現在に直すと一六五七年三月二日から二日間にわたり当時の江戸の大半を焼き尽くす大火災)で焼野原になった江戸に木材を運搬し、田原屋と号して材木商となって富を築いていた一族がいた。
もともとその流れの一族が明治の段階で磐田郡田原村と呼ばれる所に昔から住んでいた。
天竜川の中州みたいなところだったのか、度重なる洪水被害の為、一族郎党が村を移転した。
村ごと引越しをしたので、その一族を「村越」と言うと書かれていました。
東区中野町と天竜川河口付近、現・磐田市竜洋町付近に多くいる。
この一族が妙恩寺の檀家に加わってきます。

ここからは五十代目の住職の考証が添えられていますが、それは村越一族がなぜ妙恩寺の檀家になったのかという文であります。
「村越一家宗門に就いては、田原村に直檀・新池新左ェ門の遺族ありして以て祖先本宗を信じ一族。中野町移住後この村に松林寺ありしも特に遠き当山檀家になりしものならん」

(訳)村越一族は日蓮宗内に於いては、田原村に直檀(じきだん)新池(にいけ)さんの遺族がいたので、先祖代々、日蓮宗を信仰してきた一族だった。中野町に移住しても近くに、曹洞宗の松林寺等があるにもかかわらず、わざわざ遠い妙恩寺檀家になったのはこのような理由だろう」

もともと住んでいた田原村に、新池(にいけ)さんの土地があったといわれる。
新池さんは、総本山五十九世日亨上人の著された「弟子檀那列伝」には、「新池左衛門尉。遠江の国磐田郡の新池(袋井在)に住して日興上人に依って入信せられたであろう、尼と共に純真の人であった」と記されております。
信徒としてのあり方を御指南された『新池御書』等を与えられています。
金原法橋と同じように日蓮大聖人を支えていた一族ということがわかります。
この新池さんの信仰していた教えに、同じ場所に住んでいた村越さんたちが同調していったのでしょう。
だから、近くに他宗のお寺があってもわざわざ遠くの、日蓮宗・妙恩寺の檀家になったのでしょう。

村越一族は、木材を取り扱う専門家であったようであり、今回常経殿の棟札には「肝煎」(きもいり)と称し、総代・世話人と大工との調整役として名前が残っていました。
この時の本堂を建設するにあたり、寄付をする齋藤一族、そして運搬・加工等を村越一族が受け持ったのかもしれません。
このように、現在の妙恩寺檀家中で数が多い一族は、この頃に入檀してきたと思われます。
金原一族の氏寺(うじでら)の側面が強かった妙恩寺は、この本堂建築と共に、檀家寺(だんかでら)となっていく様子が窺えます。


二十七世 本妙院日永上人 (ほんみょういん にちえいしょうにん)
在住四ヶ月 宝暦十二年 一七六二年 八月十日に亡くなっている。その他記載なし。
二十八世 宣示院日専上人 (せんじいん にっせんしょうにん)
在住十年 安永八年 一七七九年 六月十五日に亡くなっている。
身延等で講義をされたり、駿河国・大慶寺二十一世 甲斐国・落居本照寺十三世等を歴任している。
二十九世 千如院日宥上人 (せんにょいん にちゆうしょうにん)
加歴 宝暦十二年 一七六二年 十二月二十六日に亡くなっている。
なぜ加歴になったか等は記載がなく判らない。
三十世 慈静院日教上人 (じせいいん にちきょうしょうにん)
在住十五年 寛政九年 一七九七年 五月十三日に亡くなっている。
日蓮大聖人五百遠忌を執り行う。
三十一世 義天院日研上人 (ぎてんいんにちけんしょうにん)
在住十六年 寛政十二年 一八〇〇年 八月六日に亡くなっている。
本堂茅葺屋根を瓦に葺き替えする。
七面堂を茅葺屋根を瓦に葺き替えし並びに向背を作る。
番神堂(現存せず)再建並びに屋根の葺き替え。
寛政元年 一七八九年の大洪水にあい、田んぼ等に砂をいれ土地を開発する。
三十二世 耐詔院日政上人 (たいしょういん にっせいしょうにん)
在住二十二年 文政五年 一八二二年 正月二十五日に亡くなっている。
身延で講義等をされている。
駿河国 東漸寺二十二世を努める。
文化四年 一八〇七年 五月十六日に日政上人身延へ登山にて不在中、庫裡・書院・物置等を焼失する。
総門建立 庫裡再建間口十間 奥行七間 草葺き(元代官所の建物改造。)平成二十二年現在、以前の庫裡がこれにあたる。
西区志都呂町の方から移築したと聞く。
将軍 徳川家斉の頃
三十三世 蓮妙院日運上人 (れんみょういん にちうんしょうにん)
在住七年 天保三年 一八三二年 二月十三日に亡くなっている。
いろいろなところで講義をされている。 落居本照寺二十世 一谷妙照寺四十一世に加歴。
土蔵三間四面建立 本堂唐戸四枚、日朝上人像・加藤清正公像造立 裏門建立。
音楽器一式寄進有。本堂賽銭箱(平成六年の本堂大改修にて解体し現存せず)開山堂修繕 歴代大位牌造立 鐃鉢一双作成(追加で銅鑼・鐃鉢は昭和四十二年で百二十七年目とある。平成二十二年現在、浜北区平口妙蓮寺に有。)
三十四世 慈音院日定上人 (じおんいん にちじょうしょうにん)
加歴 文政七年 一八二四年 八月二十日に亡くなっている。
三十世日教上人の弟子 岩倉妙感寺の住職。蔵書八箱を妙恩寺に奉納した功績をもって歴代住職として名を残すことになった。
三十五世 了義院日順上人 (りょうぎいん にちじゅんしょうにん)
在住五年 天保二年九月十二日(二十二日)に亡くなっている。
一旦は加歴と書かれながら、線が引かれている「満師代(三十六世)掘中 本乗坊(現、三方原本乗寺)住 当山一老 瑞明院日識在勤」とある。
(意訳)妙恩寺の塀の中にある 四ヶ坊中の代表である本乗坊の瑞明院日識上人(ずいめいいん にっしきしょうにん)が普段居た。
入寺されながら、ほとんど留守だった日順住職に代わり、妙恩寺という本院に対し四ヶ坊の支院で支えていた時代と推察します。
三十六世 瑞泉院日満上人 (ずいせんいん にちまんしょうにん)
在住二十二年 嘉永七年 七月二十二日 数六十歳(五十八歳)で亡くなっている。

妙恩寺歴代の中で名住職多けれど、私はこの住職も妙恩寺発展の大きな担い手と思います。


歴代住職が日満上人の欄に後から加えた筆に「徒弟多く在家・筆子・弟子少なからず 名僧の誉れ高し」とあります。
私は現在、檀信徒の家にある御曼荼羅は、三十二世のものもありますが、三十六世日満上人のものが群を抜いて多く現存していることを確認しています。
山梨県の産まれで、身延山にて多くの講義をしています。
妙恩寺の住職を「住職」と呼ばず「御前さま」「御前さん」と呼ぶようになったのは、この方からのようです。
「永代緋紋初祖」と言って、これ以降現在に至るまで、妙恩寺の住職は緋色の袈裟を付けるようになったのです。
鐘楼再建、東照霊屋再建(十二世参照)、 宝蔵再建、 御開山五百遠忌挙行(初代 日像菩薩五百年忌)、そして毎年四月に行われる千部会(せんぶえ)を発願した時の住職です。
三十代で住職になり、身延で多くの僧侶を教育し、浜松でも多くの弟子達をつくり、妙恩寺に今残る年中行事を整備し、建物の建造などを次々とこなしました。
「超」名住職と呼ぶにふさわしい方だと言えます。
第十三代将軍 徳川家定時代 嘉永七年一月一四日(現二月十一日)にペリーが軍艦七隻を率いて江戸湾に来航。大きく日本が動き出そうと言う時期。

三十七世 僧那院日船上人 (そうないん にっせんしょうにん)
加歴 安政元年 一八五四年 十一月二十二日に亡くなっている。その他記載無
三十八世 瑞遠院日泉上人 (ずいえんいん にっせんしょうにん)
在住三年 明治十九年三月三日に亡くなっている。その他記載無
三十九世 瑞義院日逞上人 (ずいぎいん にっていしょうにん)
加歴 慶応三年 一八六七年 一月二十八日に亡くなっている。
三十六世弟子 柚野光徳寺歴代 浜北宮口恩光寺二十世 七十二歳
四十世 瑞豊院日光上人 (ずいほういん にちこうしょうにん)
在住八年 文久三年 一八六三年 十一月十六日に亡くなっている
四十一世 瑞養院日然上人 (ずいよういん にちねんしょうにん)
在住三年 明治二十三年 一八八九年 二月二日に亡くなっている。
元治元年 一八六四年 現本堂過去帳開録 本堂の住職が座る傍らにある過去帳はこの時からになる。
四十二世 瑞善院日猛上人 (ずいぜんいん にちみょうしょうにん)
記録無  明治十五年 一八八二年 六月二十日に亡くなっている。
西区馬郡町にある東本徳寺二十五世として亡くなっている
四十三世 瑞潤院日竜上人 (ずいじゅんいん にちりゅうしょうにん)
加歴   明治元年(慶応四年) 一八六八年 三月十二日
浜北宮口恩光寺二十一世として亡くなっている。鶴見(町)鈴木○○の出身と有。
四十四世 瑞延院日宥上人 (ずいえんいん にちゆうしょうにん)
加歴 明治十一年 一六七八年 四月十四日に亡くなる。
掛川市大池にある宗心寺にて亡くなっている。
四十五世 瑞祐院日恭上人 (ずいゆういん にちきょうしょうにん)
在住二十一年 明治三十八年 一九〇五年 五月十八日に亡くなっている。
西区馬郡町の出身 明治二年入山 明治維新後、朱印上地(約百俵)を召し上げあられ、経営が困難と窮状を訴えている。
末寺 円頓寺・住行寺・鶴見 覚林庵を(明治十年)廃寺。
三十三世日運上人土蔵取壊し。
明治十四年 宗祖日蓮大聖人六百遠忌を奉修する。
明治時代を迎え急に寺院経営が悪化してきている。
明治十八年 一八八五年 門跡 村雲尼公御巡教。
明治十九年 備中高松より最上殿奉祀。
明治十四年宗祖六百遠忌奉修する。
明治二十二年浜北宮口恩光寺へ退隠 浜北宮口恩光寺二十五世として七十七歳で亡くなっている。
四十六世 三要院日軌(くさかんむりに軌)上人 (さんよういんにちきしょうにん)
在住四年 明治二十二年 一八八九年 七月入寺 明治二十五年十月四日に亡くなっている。
明治二十二年天竜川破堤大洪水。
本堂床に達す。泥が侵入。同二十五年大暴風雨の為、本堂ほか諸堂屋根大破。明治二十五年位牌堂牌座改革を計画する。
連年の天災大破を憂い、復興を見ずして十月、三十六歳にて亡くなる。
四十七世 高堅院日保上人 (こうけんいん にちほしょうにん)
明治二十五年十二月入山。在住四年にして明治二十九年愛知県額田郡・長満寺へ転住。明治三十二年 三十八歳にて亡くなっている。

和歌山県の出身。東京にて明治二十六年、金原明善・原田八弥が世話をし、伊藤博文・大隈重信その他の名士(他の記録には、渋沢栄一や当時の市川団十郎等の名もある)が姥ケ谷講中の取り持ちによって寄付金千円を集める(明善が出開帳を行ったとも言われている)

この資金を以て、明治二十二年に大破している本堂をはじめ諸堂の復旧工事を行いました。
住職の居間を作り、旧七面堂の用材を元にして位牌堂を建立(現在の前の位牌堂のこと)しました。

塔頭(たっちゅうと言い、大きな寺院の敷地内にあることが多く、高僧が隠退後に住んだ子院のことを指すことが多い。塔中とも書く。)が現妙恩寺周辺に四ヶ坊あったが、大善坊は福岡県八女郡。圓誠坊は圓誠寺と名を変え福岡県朝倉市へ移転。本乗坊は本乗寺と名を変え浜松市北区三方原町へ、完了坊は寛良寺と名を変え愛知県半田市へ移転。
寛良寺は榊原幸吉氏の土地の提供で移転したが、檀家等が無く無収入の為、妙恩寺四十八世の弟子日運(浜松市中区泉町 法光寺加歴)が定住するまでしばらく妙恩寺住職が兼務していた。このことは数年前、私が岩手県・遠野市で開かれていた声明師養成講習所にて研修中に半田・寛良寺の御子息・加藤信行上人(愛知県東海市 大教院住職)に教えて頂いた。
本乗寺は先々代等から聞いていたが、他寺は判らなかった。九州移転の記述しかなかった二ヶ寺は今回調査をして判明した。

この頃の妙恩寺は、天竜区二俣町鹿島の住行寺や前山・圓頓寺を廃寺とし支院・末寺を移転・整理してきたことがわかる。(東京 経王会は創始者が後の妙恩寺四十九世加歴となるも昭和二十年の戦災で焼失。浅草から多摩市へ移転し経王山大乗寺となっている。妙恩寺五十世は経王会三世)「跡地五反程を境内に編入し、会計整理の為、寺有地一町余りを十ヶ年賦賄として出す」との記載から苦しい状況がわかる。

ほぼ現在の妙恩寺の境内はこの時に確定したものと思われます。


四十八世 本行院日明上人 (ほんぎょういん にちみんしょうにん)
明治二十九年八月 和歌山県海南市・妙台寺から六十五歳にて、転住。在住十二年 明治四十年六月二日に亡くなっている。
和歌山県の紀伊藩士 旗本 江羅七郎左衛門七男。京都・妙顕寺日寿上人の弟子。

「天災疲弊頻々代代り寺録減少等、名宝伴わず時期に際会し寺門経営困難・・・。」
明治になり、廃仏毀釈等による時代の流れや天竜川の氾濫。住職の度重なる交代等により危機的な状況にあると始まった四十八世の代。
それでも、現在の庫裡の前にある築山はこの代に作られている。本堂の畳変えや襖替え次々と事業を進めています。

江戸時代には、米百俵の収入があり、一旦はゼロになるも、日明上人代には四十俵の収入まで回復している。
明治初年からの過去帳を見てきた私は、ある事に気がつきました。この頃から、檀家が増え始めているのです。
江戸時代に齋藤・村越等で増えて以来に増加の傾向が見られます。

高柳家等もこの頃に妙恩寺の檀家になっていますが、この頃の入檀してきた方達の理由が「明善さんの勧めにより」と言うのがなんと多いことでしょうか。
他宗寺院の檀家だった人達が、妙恩寺へ改宗・入檀しています。

こういったところで、寺院が安定化に向かっている様子が見て取れます。
明治四十年に本堂の天井からぶら下がっている天蓋(てんがい)を新調していますが、この当時に三百円かかっているものに高柳家が百円寄付との記載があり、築山も百余円とありますが、檀信徒の寄付等で賄われたのかもしれません。
身延山法主 日良猊下も来浜されたり、前代で作った借金千円中六百円を返す等の記載が晩年にみられ、一時の没落からは抜け出そうとしています。


四十九世 自我偈院日也上人 (じがげいん にちやしょうにん)
加歴 井上 日也(いのうえ にちや)と言い、日明上人の弟子。五十世兄弟子。東京経王会草創者 明治四十二年六月十七日に亡くなっている。
記録には、毎年の千部会に説教師として来講していたとある。
五十世 本照院日康上人(ほんしょういん にちこうしょうにん)
北原 観朗(きたはら かんろう)と言い、四十八世日明上人の十二名の弟子の末弟として和歌山県から随行してきている。
東京にいたが、兄弟子が還俗(僧侶の世界から普通の社会へ戻ること)したり、当時の金原明善等の熱心な勧めもあり、明治四十年七月に二十六歳にて妙恩寺に入寺されました。

檀信徒のみなさんが「きたはらのごぜんさん」と言うのは、この方の事です。

住職となった折の言葉でしょうか、「日明上人の御陰で建物等の復興の兆しが見えたが、こんどは明治維新以来閉じ込められていた信仰方面が、日露戦争と共に覚醒してきたようだ。」と述べられています。
幻灯機を購入し、映画を見せたり(当時不要になっていたお籠を処分して幻灯機を購入したことになっている。私が聞かされていた記憶では、ひとつは浜松市へもう一つは旅の芸人一座に売ったと聞いている。

妙恩寺六百年記念祭は、この住職の元で行われ、記念碑建設(現在山門前)。記念施本三千部。 初代住職日像上人曼荼羅複製を妙恩寺だけでなく末寺まで合わせて六百ほど授与している。
身延山法主 日慈上人を呼んだり、大学の先生を呼んだり、関東大震災への救助、天龍川町の御宮新築に当たっての寄付。末寺・妙蓮寺本堂改築補助だったり、かなり活発に活動をされていました。

昭和五年一月の日記には、明治四十一年住職になってから百戸の檀家が増え、三百五十三戸となったと書かれ、妙恩寺の基盤も安定してきた様子がうかがえます。

毎年毎年これでもかという活動を行っていましたが、その集大成は明善寺の建立に尽きると思います。
昭和九年に妙恩寺別院として創設されます。その時の号礼は、「人口十余万の浜松市には本宗寺院として法雲寺一ヶ寺あるのみ。近年当山檀家五十に達す宗門発展の為、当山将来の為、市南部へ第二妙恩山の基を開く」と。

明善寺は金原明善翁の遺徳顕彰の為に建てられたお寺です。十三回忌法要の際、次の十七回忌までに明善寺を建立したく、その時の手本となるように寺島町に小さく別院を建てました。
これが妙恩寺別院です。
聞くところによりますと、この願望を成功させる為に浜松駅前で布教活動をし、募金を募るのに妙恩寺からでは遠いので、その前線として設立されたようです。

昭和十一年の記録には、庫裡増築の理由が「方面委員事務所として」と残っています。
この願望は実現に向かって動き出します。金原治水財団より市内四ツ池の財団苗圃地の一部(一町二反歩)を境内地として永代無料貸与が約束され、寄付も集まってきましたが、戦前の宗教団体法は新寺の建立を許さない為、万策尽きて、小笠郡(現・掛川市)満勝寺塔中受源坊の寺号を移転し、その上で寺号を明善寺と改称、御堂の建築の認可が下りない為、やむなく妙恩教会を廃して明善寺とし、暫定的な天龍山明善寺の設立となったのです。

『天龍山 明善寺の寺歴』

(きたはらのごぜんさん)の日誌には、昭和二十年ころから急に字に勢いが無くなり、判読不能の文字もあるが以下のように書かれていた。

昭和九年建設発起せる明善寺は(支那)事変並びに戦争の為、建築不能となり。
昭和十八年浜松市幸町(浜松市中区幸町)に三千余坪の敷地を予定せんも、将来の建設の完成する迄暫定的に寺島町別院へ寺号を請くることとしなん。
四月、管長の上人を得、六月十九日に其の筋の認可を得たり
建設資金・寄(付)金・申込額 十三万三千余円に達し、収納金八万五千円を得、明善寺に移管す。しょうわ二十一年二月末日。
七月二十九日 浜松市戦災火災に依り、法雲寺 常住院等の全焼に対し当山は率先五百円を提供し、国内寺院檀信(徒)の協力を得て四千余円の義損を集め三ヶ寺の復興資金中に贈る。・・・。

もし、四ツ池に三千坪を超える明善寺が出来上がっていたら、現在の妙恩寺に匹敵する大きさを持つことになります。
この寺は、本堂等の建物の他に明善精神を伝承実現させる為の施設の併設が計画されていたようです。

妙恩寺在住四十一年。
かなり詳細な日記が残っていて、その事績はあまりに多く、檀信徒のみなさんに書面にてお伝えすることは不可能と思われるので、かいつまんでの文章になりましたが、若くして入寺され活躍された(きたはらのごぜんさん)は清い身体でいようと、闇食料に手を出す事が無かった為、次第に栄養失調になり昭和二十二年十月八日 六十六歳にて亡くなり、計画した明善寺は遂に実現しませんでした。


五十一世 本康院日清上人 (ほんこういん にっせいしょうにん)
五十三世の欄にまとめる。
五十二世 本時院日子上人 (ほんじいん にっししょうにん)
星野 春朗(ほしの しゅんろう)と言い東京神田の産。
五十世日康上人の弟子 昭和二十二年住職継承。
昭和三十五年四月二十三日 静岡池田 本山本覚寺へ入寺(五十五世)。
昭和三十八年十月十九日に亡くなっています。在住十三年。