初代

龍華樹院日像菩薩(上人) (りゅうげじゅいんにちぞうぼさつ・しょうにん)
一二六九~一三四二年。鎌倉時代、下総国平賀(千葉県松戸市)に父 平賀忠晴公・母 後の妙朗尼の子として生まれる。日朗上人の異父弟にあたり、七歳で日朗上人の弟子となる。
日朗上人は、日蓮大聖人が弘安五年 一二八二年、池上本門寺で亡くなられる時、その前に、日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)の六人本弟子(六老僧)と定め、後事を託された一人であり、日蓮大聖人が亡くなって六年目、それまで六老僧による集団指導体制だったのだが日興上人が、教義上の問題から弟子を引き連れ身延山をおり、富士山麓に大石寺を創設し、他の五老僧と義絶することになった時でさえ、日興上人側の僧侶からも尊敬される記録がのこることから誰からも敬愛される人柄であり、常に日蓮大聖人のそばに仕え、苦しみをともにした人物。
初代妙恩寺住職は、そんな人物の元に弟子入りするわけですが、師匠の日朗は七歳で入門してきたこの少年が素晴らしい資質の持ち主であることを見抜き、自分の師匠である日蓮大聖人の元へ送ります。
日蓮大聖人もこの少年に期待したのか、本尊を授け(玄旨本尊)、「経一丸」(きょういちまる)と名付けました。以後、晩年の日蓮大聖人のもとで修業に励みます。
日蓮大聖人が亡くなる(入滅)のは、それから七年後。日蓮大聖人は臨終間際に十四歳のこの孫弟子を枕元に呼んで、京都布教の遺命を残します。
経一丸は日蓮大聖人の棺の前で剃髪し「肥後房日像」(ひごぼう にちぞう)と名前を改めて、この遺命を胸にさらに修行されるのです。
毎年日蓮大聖人の命日である十月十三日に行われる御会式(おえしき)の際、妙恩寺本堂に大きな日蓮大聖人の涅槃図が懸けられます。
日蓮大聖人の前に描かれている少年が、妙恩寺初代住職の幼い姿なのです。
全国の日蓮宗寺院に行って日蓮大聖人の涅槃図を見ても必ず同じような構図で描かれています。
日蓮大聖人が亡くなられて十一年後、二十五歳になった日像上人は遺命を果たすべく京都へ上洛することを決意します。
身延・佐渡等を周り北陸路を布教しながら京都に向かい、翌二十六歳(一二九四年)四月二十八日早朝に皇居東門にたって朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と第一声をあげます。
以後十数年かけて布教をされていると、その教えが京都中にひろまるにつれ、比叡山僧徒をはじめとする他宗の圧力も強くなり、何度か京都から追い出されることになります。
「三黜三赦(さんちつさんしゃ)・・・三回追い出され、三回許される」
ようやく一三三四年四月十四日に後醍醐天皇から綸旨を賜ります
「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗(いちじょう)円(えん)頓(どん)の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈(せいき)を凝(こら)すべし」
多くの苦労をし、日蓮大聖人の遺命を上洛から四十年目にして果たします。
日蓮大聖人が亡くなられてから五十余年、その二回目の京都追放が一三一一年三月七日に許された直後に建てられたのが妙恩寺なのです。
日蓮大聖人遺命を果たす最中になぜ、浜松の地に来たのか? 前年に母親の死を知らされたこと。また師匠の日朗上人も六十九歳になり、墓参りと京都布教の途中報告をすべく、鎌倉へ向かわれたと聞きます。
先々代の文章を読めば、姉の妙恩尼が京都まで行った帰りに浜松に留まっていることになっている。
その後に、日像上人が鎌倉の日朗上人への京都布教の報告を終え帰り道に浜松の金原法橋邸に寄り、そこで妙恩寺が出来ることになっています。
しかし、これには諸説あり、まずは姉ではなく妹というものから始まり、また、妙恩尼と日像上人共に帰りではなく、それぞれが向かう途中でほぼ真ん中である浜松の地に於いて出会った。などがあます。
どれにせよ、御兄弟が出会った場所が鎌倉・京都というすでに布教が進んでいる地区ではなく未開拓の地であり、また日蓮大聖人が生きている時から親交があり、御題目「南無妙法蓮華経」をお唱えする信仰者であった金原法橋の屋敷であったことが重要なのです。
金原法橋・金原家については別章にて取り上げていただくとして、日蓮宗事典に記載されている内容だけをそのまま載せようと思います。
佐渡流罪の途上にあった日蓮聖人は、文永八年(一二七一)一〇月五日に大田左衛門尉(乗明)、蘇(曽)谷入道と、金原法橋に宛てて「転重軽受法門」という御書を賜わった。
この書の初めに「修利槃特と申は兄弟二人なり、一人もありしかば、すりはんどくと申すなり、各々三人は又かくのごとし、一人来せ給へば三人と存候也」と述べられている。
金原法橋が日蓮聖人の檀越として現れるのはこの一ヵ所であるが、宛名の三人(大田・曽谷・金原)が、宗教上の問題に限らず、他の面においても常に密接な関係にあったことが窺われる。
金原法橋は房総の雄族として知られる千葉氏の一族で、下総国千田庄金原郷(千葉県八日市場市金原)の領主であった。
最近発見された史料(中山法華経寺文書)によると、幕府に公事を納入し、下男を所有していることから、金原の地における地頭としての立場にあったと思われる。
日蓮聖人が鎌倉を中心に布教活動を展開していた頃、富木常忍は千葉氏の被官として活躍する一方、聖人の信者としてその伝道生活を支えていた。
下総国の諸地域に住む武士たちは、守護の千葉氏とのさまざまな交渉に当って、実際には事務を司どる富木常忍と折衝を重ねた。
金原氏もこれに例外ではなく、建長五年(一二五三)ころには下人のこと、公事のことなどで富木常忍に相談を持ちかけている。
このような機縁によって、富木常忍に導かれて日蓮聖人の信者となったのであろう。
ところで金原法橋の住む金原郷には、安久山堂という寺院があり、後に日蓮宗の寺院として改宗した。
その住職が金原氏惣領で後に出家した覚諭であり、当寺の歴代は「日諭・常諭・覚諭」と次第する(円静寺板本尊)。
この日諭の頃がちょうど日蓮聖人在世の当時に当るから、金原法橋が日諭と号したことは恐らく間違いないと思われる。
しかし史料上の制約によって断定するまでには至らないとしても、少なくとも千田庄の金原氏であることは見当づけられる。
従来、金原を「キンバラ」と読んでいるが、これは駿河在住の一族金原氏の読みを伝承したものである。『日蓮宗事典』
金原法橋は、浜松の地に移ってこられて現在の妙恩寺付近がその邸宅であったようです。
妙恩寺北側の天龍川町の一部を「殿屋敷」と言うのはこの名残なのかもしれません。
諸説がありますが、このたび修復した弘安三年 一二八〇年(日蓮大聖人五九歳 亡くなる二年前)の日蓮大聖人本人が書かれた曼荼羅は金原家より妙恩寺へ納められたもので、この地に「南無妙法蓮華経」のお題目をお唱えする中心的人物がいたことは間違いがないことでしょう。
さて、日像上人は一三四二年に七四歳で亡くなります。
日像上人・妙恩尼・金原法橋という三名がドラマチックに出会った場所がこの妙恩寺なのです。
ちなみに、皆さんの年忌法要や葬儀の折に、住職が最初に唱え始める勧請というところで初代住職名を言うことになっています。
他寺では○○寺開山 ××上人と言っていますが、私は、初代住職日像上人を「日像菩薩(にちぞうぼさつ)」と言っています。
さらには「日蓮大菩薩」(にちれんだいぼさつ)とも言っています。
これは、京都・妙顕寺の後を弟子の大覚(だいがく)に譲ります。
この大覚が後に、雨乞いの祈祷の成功によって大僧正に任ぜられた時に、日蓮に「大菩薩」、日朗・日像に「菩薩」の称号を賜ることによります。
歴史中の日蓮宗僧侶で菩薩の名を冠するのはこの三名だけです。