創立後の足跡

二代 妙恩院日如上人 (みょうおんいん にちにょしょうにん)
妙恩寺歴代の中で唯一の女性。
妙恩尼(みょうおんに)ともいう。
妙恩寺歴譜には日像の姉 (先々代記録には妹と訂正跡有)で三十五年間(在住三十五年)妙恩寺にいて法華経を弘める活動をしていたとある。
貞和二年 一三四六年(日蓮宗年表には貞和四年)に亡くなっている。
このころの日本は、将軍・足利尊氏のもと室町時代に入ってきている。
妙恩寺の記録には「法橋は尼の為に庵を結び・・・」とあることから、このころは本堂があって・・・というような形では無く、金原法橋邸内の小さな庵から始まったようだが、歴譜にある金原法橋の欄に「邸内に法華道場を開き本国宗門最初の寺たらしむ」との記載から次第に金原法橋私邸からお寺へと姿を変えていったようです。
三代 寿量院日顕上人 (じゅりょういん にちけんしょうにん)
足利義満の時代。
応安二年 一三六九年 正月晦日に亡くなっている。
在住七年(十三年に訂正が入っている) 金原本家歴世 血統法橋子となっている。
この後十代目までは金原家から住職が出ている。何軒かの檀家から「うちから妙恩寺住職になっている」と聞かされているが、現在どの金原家がその後裔になるかは不明。
最終的には金原の宗家から出ているのだが・・・。
四代 顕本院日寿上人 (けんぽんいん にちじゅしょうにん)
在住十七年。 至徳三年 一三八六年 四月七日に亡くなっている。
三代と同じく金原本家歴世 法橋孫とある。
五代 了遠院日義上人 (りょうおんいん にちぎしょうにん)
将軍・足利義持・義量の頃。
在住三十八年 応永三十年 一四二三年 十月十三日に亡くなっている。
一三九七年に足利義満が金閣寺を建立している。
金原本家歴世 法橋曾孫とある
六代 圓心院日鏡上人 (えんしんいん にちきょうしょうにん)
足利義政・義尚の時代 室町幕府の根幹が揺らぐような事件が起こったころの住職。
一四六七年~一四七七年まで続いた応仁の乱が起っている。
将軍の跡継ぎ問題に有力家臣(守護大名)等が加わり、一時治まっていた不穏な空気が漂い始めたころと言える。
在住五十三年 文明九年 一四七七年 正月十七日に亡くなっている。
かなりの長期にわたり住職を務められた。
金原本家歴世 法橋玄孫とある。
七代 三性院日縁上人 (さんせいいん にちえんしょうにん)
在住十三年 延徳元年 一四八九年 二月二八日に亡くなっている。
足利義尚の時代。
先代将軍義政等と仲良くいかず、側近同士で武力衝突が起るなどして、足利義政は剃髪し出家し事実上、政治の世界から遠ざかる 一四八五年。
この後、東山山荘 今の銀閣寺の造営にはいり、わびさびに代表される「東山文化」を形作り文化的には功績があったが、世の中の不安は日増しにましているころだと言える。
八代 持戒院日現上人 (じかいいん にちげんしょうにん)
在住二十八年 永正十三年 一五一六年 正月一日に亡くなられている 金原家歴世
十代将軍 足利義稙の時代 京都周辺では応仁の乱後も有力者達の小競り合いが続き、将軍自体が亡命するなど不安は取り除かれていない時代。
九代 常在院日宣上人 (じょうざいいん にっせんしょうにん)
在住二十八年 弘治二年 一五五六年 一一月十二日に亡くなっている。
十三代将軍 足利義輝の時代。
幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。
大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、将軍の威信を知らしめた。
諸大名に自分の名の一字「輝」を与える(毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎のちの謙信)等活躍するが、京都の火種は地方に飛び火し、このころには後の戦国大名と呼ばれる者達が誕生している。
十代 了心院日受上人 (りょうしんいん にちじゅしょうにん)
在住六年 永禄六年 一五六三年 一月十九日に亡くなっている。
この二年後に永禄の変が起り、将軍足利義輝討死にし将軍が空席になり、この将軍の後継問題の流れの中で、足利義昭を候補に推す織田信長の登場となる。
いよいよ戦国時代という頃である。