あなたと地域を繋ぐ手助け役として

山澤英伸

合掌 妙恩寺は日蓮宗に属します。日蓮宗は平成14年、西暦では2002年、750年を迎えました。750年・・・それは、日蓮聖人が一切衆生救済の決意のもと、初めて千葉・清澄寺で南無妙法蓮華経のお題目をお唱え(立教開宗)してからの年月になります。そののち間もなく、平成23年、西暦では2011年、妙恩寺自身は700年を迎えました。もちろん、地元の日蓮宗寺院では最古となります。

「仏作って魂入れず」という言葉があります。妙恩寺の寺観は、建て替えされながらも700年間、お寺をとりまく人々によって連綿とこの地につながれてきました。この地に700年寺観が続いているのは、「作った仏に魂を入れる後の世の人たち」その存在があり続けたからだ、という証しにも感じられます。

平成27年、西暦では2015年、本ウェブサイトを立ち上げました。妙恩寺に紡がれた過去の歴史資産を維持し公開することによって、皆さまの地域への愛着・自信を得る手助けをする。このお寺とお付き合いをしていると、困ったときには頼りになる。お寺を介して地域の人々が相互関係で生かされていることを自覚できる。そんなつながりの場所として妙恩寺が存在できればと、檀信徒の皆さまへの紙面お便りと共に、地域への情報発信を始めました。
どうぞよろしくお願い申し上げます。 再拝

妙恩寺へご朱印を受けに訪れる前に

ご朱印の手引きのページを設けましたので、ご覧の上ご来山くださいませ(詳しくはこちら


「妙恩寺てらこや(令和元年)ご案内はじめました」。(令和元年6月2日付)

くわしくは下部の、新着記事にてお知らせしています。


「来年の大河ドラマに想う」(平成28年9月吉日随想)

石塔が目印となる旧東海道から妙恩寺への進入路。(道向かいJAからの眺め)

石塔が目印となる旧東海道から妙恩寺への進入路。(道向かいJAからの眺め)

来年の大河ドラマが『おんな城主 直虎』に決まり、浜松周辺は色めきだってきた。
のぼりが立ち、原稿執筆の今日(8月26日)は井伊直虎の命日とのこと。
主人公を演じる女優が井伊家菩提寺の龍潭寺に参拝したと新聞に載り、ゆるキャラ「出世法師 直虎ちゃん」が、先輩の?「出世大名 家康くん」と市内を賑わす。
檀信徒や、これまた流行の「御朱印・御首題」で妙恩寺へ訪れた方達からの質問が増えました。
「妙恩寺と井伊家との関係はないのですか?」
「・・・ある・・・と思う」
答えはこれが限界。
以降の文章は残っている記録等から、推測・想いです。
妙恩寺は、徳川家康との関係があることは檀信徒の皆さんには周知の通りです
詳しくは妙恩寺七〇〇年記念で配布の著書「うちのお寺は妙恩寺」をご覧ください。

著書「うちのお寺は妙恩寺」

著書「うちのお寺は妙恩寺」

井伊直虎と妙恩寺の関係を直接示すものは何もありません。
井伊家との関係は少しあるのでは?という程度です。
今回の井伊家をお話する上で外せないのが、徳川家康。徳川四天王と呼ばれ後の彦根藩初代藩主となる直政の養母が井伊直虎であり、直虎が直政を養育し家康に引き合わせたことが歴史的意義になります。
まずは家康の動きから井伊家を見てみます。
徳川家康は、妙恩寺へ、最低二度は来ていることになっています。
①岡崎城から引馬城(浜松城)へ引越ししてくる時。
②三方原の戦いの初戦「一言坂の戦い」で負けたあと。
今回は①の記録からの話になります。(日にちは資料により前後することがあります)
一五六八年十二月二日に姫街道を使い三河国から遠江国に入り、奥山方広寺へ。
そして十二月四日すぐ近くの井伊谷に宿陣します。
井伊谷三人衆の手引きにより浜名湖北岸を家康は来たことになります。
家康はこの時点で遠江国の名族・井伊家を味方につけることに成功します。
次に徳川勢は、現在の追分(おいわけ)に進み引馬城(浜松城)に入るのが最短コースであるにも関わらず、大周りをします。

図録

浜松市博物館特別展「徳川家康四百年」図録より

十二月八日に妙恩寺を本陣、頭陀寺を脇本陣とし、十二月十八日引馬城入城というルートを通ります。
最短コースをとらずに井伊谷を出発したあと東区安間町にある東海道との接続地点に現れます。
今川義元が桶狭間で討たれてから、今川家は衰退の道を進んでいましたが、未だ浜松の地では今川家に味方する者も多く、追分から現在の街中へ入るルートは危険が伴います。
出来るだけ犠牲を払わずに済むルートを選択することになります。
妙恩寺から見て西南、直線距離にして2キロほど、頭陀寺の地では、次期井伊家当主直政(幼名・虎松)の実母・ひよが、松下源太郎清景という武将と再婚していた。
(清景の妹は本家・松下加兵衛之綱に嫁いでいるが、この父の時代に十五、六歳の下男がいたとされる。後の豊臣秀吉と言われている)
実母・ひよにしてみれば、自分の産んだ虎松(直政)は名族・井伊家の次期当主である。その井伊家が従うことを決めた徳川家康に味方する事は、血縁や家柄を重んじる当時としては実母・ひよが松下家に懇願しなくても予想がつく。
頭陀寺周辺を地盤とする松下家協力のもと、頭陀寺が場所を提供したことは想像がつく。
かくして引馬城(浜松城)の南東から睨みがきく状態になった。
さて妙恩寺が選ばれた件ですが、安間町の東海道との接続地点まできた徳川勢にとって引馬城に入城するには東海道を西進することが手っ取り早い。
現在、近くに他宗の寺がありますが、少なくとも四百五十年以上前からある寺でないと家康を迎え入れることが出来ません。
前述の頭陀寺は千二百~千三百年、妙恩寺は七百年の歴史があり、当時から存在しています。
浜松の街中へ進む道は現在ほど無く、必然的に東海道を進むことになります。
東海道に面して存在していた妙恩寺が選ばれたのは地理的要因が強いと想われます。

↑矢印は旧東海道で、妙恩寺の北面を引馬城へと進軍するルートです。

↑矢印は旧東海道で、妙恩寺の北面を引馬城へと進軍するルートです。

さらに、江戸時代の妙恩寺絵図をみると一種の砦の様相をしています。
現在皆様が妙恩寺に訪れるとき、旧東海道からの進入路(JA和田支店)から入った場合、進路すぐ左側に「南無妙法蓮華経」と書かれた石塔が建っていますが、昔はここに総門が建っていました。
さらに妙恩寺へ向けて南下していく道路は、四つの末寺が存在していました。
旧東海道、妙恩寺総門跡の石塔から、現在の妙恩寺へ向かう参道。

旧東海道、妙恩寺総門跡の石塔から、現在の妙恩寺へ向かう参道。

もし仮に攻められたとしても、総門を破り・四つの末寺を経由して現在の妙恩寺山門にたどり着くことは大変です。

「裏から攻められるじゃないか!」
とおっしゃる方もあることでしょう。
ところが、妙恩寺の裏側、南面は天然の堀があるようなものだったのです。
妙恩寺の裏側、南面は現在、天竜川駅が存在していますが、昔は芳川の方から舟が入ることができる入江になっていました。
大勢の人数を収容出来、もしもの時にも対応出来る妙恩寺は便利だった事でしょう。
これが、②「一言坂の戦い」で負けたあと磐田から撤退する時に一時避難場所に選ばれた理由にもなると思われます。
浜松城に対して妙恩寺は東に位置します。
南に位置する頭陀寺と共に、浜松の街中を伺うのに絶好の位置となるのではないでしょうか・・・。

徳川家康公天竜川御難戦之図

一言坂の戦いにて敗走し天竜川を渡る「徳川家康公天竜川御難戦之図」

次にもう一つ・・・。
昨年十月より住職の私は紫衣を着用するようになりましたが、その昔、紫衣は天皇陛下より戴くようになっていました。
天皇陛下に謁見した上でのことになりますが、それなりの位がないと会うことも出来ません。
その為、仏教各宗派は、宗派内に存在する由緒正しき出自の者との関係から、そこの氏族より家紋を拝借することをしてきました。
日蓮宗は「井筒に橘」を宗紋としています。
井伊家の家紋と同じです。
宗祖の日蓮聖人が井伊氏から分かれた支流の出と伝えられているからです。

(左)井伊橘 (右)日蓮宗橘

(左)井伊橘 (右)日蓮宗橘

井伊氏の始祖・共保から五代のちの正直が分家して貫名の地(袋井市)に移り住み、貫名(ぬきな)氏と称した。
正直の孫にあたる重忠(しげただ)が、鎌倉幕府成立後、伊勢平氏の乱に加担したため、安房国片海(現在の千葉県安房小湊)に流罪となり、そこで生まれたのが日蓮聖人だと言われています。
(別の説もあり)
袋井市にある貫名山妙日寺は、重忠の遺言により、遺骨を貫名に帰して葬り、居館跡に創建されたとされます。
さて話を戻します。
家康が引馬城へ安全に入る為には、徳川勢に味方をしてくれるところを頼ることになります。
この間に井伊家が仲立ちをしていることが考えられるのです。
井伊家にしてみると
「次期当主・直政の実母が再婚して嫁いでいる松下家(頭陀寺)はきっと力になってくれる。」
「うちから出て行った親戚筋に日蓮聖人がいる。橋羽(天龍川町)の妙恩寺は日蓮がかわいがった孫弟子が建てた寺。きっと助けてくれる。」
・・・こんな感じでしょうか?
妙恩寺の地理的要因にプラスアルファしたのが井伊氏ではないかと想うのです。
来年、ドラマ上に井桁橘紋を見ることがあったら、妙恩寺のことも思い出してみてください。
まいてら

妙恩寺は「まいてら」に登録されております。


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