補足を加えながら進めてゆきます。

妙恩寺は、身延山第三十六世・六牙院日潮上人が書かれた『本化別頭仏祖統記』に一三一一年の閏六月二十六日に開かれたと記されています。
現在の日にちでは、五月八日になります。一三一一年というのは、鎌倉時代。鎌倉幕府滅亡が一三三三年と言われますので、鎌倉時代後期になります。

京都では、花園天皇、鎌倉幕府執権は北条師時から宗宣の代。
日蓮大聖人が亡くなられて三十年にあたります。
『本化別頭仏祖統記』には「日像、日朗を招する時、金原法橋の許に姉の妙恩日如を訪い、その地寺となる、天竜妙恩寺これなり」とあります。
これから数えて七百年ということになりますが、この文章に登場する人物やここに至るまでの話を加えながら、初代住職・二代目住職の話をしていきます。

橋羽で創建700年、家康にもご縁がある妙恩寺は日蓮聖人の孫弟子日像上人が開いたお寺です。

その700年を記念して発行された「うちのお寺は妙恩寺」から、妙恩寺歴代住職の足跡を辿りながら起稿した文を元に、妙恩寺の歴史をお伝えいたします。

妙恩寺の歴史・・・まず始めに「まとめ」からお伝えします

妙恩寺は最初に、日蓮聖人から京都布教を託された日像上人と、その兄弟の妙恩尼と日蓮聖人の教えを直に触れて篤い信仰心を持っていた金原法橋の三名のドラマチックな出会いからスタートしました。
建物は大堂伽藍並び立つものではなく、金原家の邸内にひっそりと建っている小さな建物から始まりました。
その後は、金原家の中から住職がでて次第に寺としての体裁が整っていきます。
十一代目の時には徳川家康との関係からより財政基盤が安定し、東海道 天竜川河畔の法華の大寺としてスタートすることになります。

江戸時代になると、学僧タイプの住職が増えますが、歌の達人・筆の達人等個性豊かな住職も誕生します。
先々代や先代から「東の瑞輪寺(東京・谷中)と西の妙恩寺」と聞かされた触頭(ふれがしら)と言って、身延山から出された様々な命令・書状は直接一ヶ寺ずつに届かず、まずは妙恩寺に届き、妙恩寺住職が周辺寺院に通達する役目をもっていたこともあり、この時代には法華の寺の中心的存在にもなっていたことが推測できます。
キリスト教禁止や宗門人別帳等の国からの政策等により、いわゆる檀家制度が始まり、妙恩寺も齋藤氏・村越氏等の一族が檀信徒となり、それも元々法華に縁のある一族の入檀に、七堂伽藍を具える大規模寺院へと変貌しさらに周りに四つの塔頭を具え末寺も増え、三十六世日満上人のころの江戸の末期には、その住職のことを「御前様」という俗に「ごぜんでら」との格式を確固たるものにしてきました。

明治になると、土地が無くなるなど経済的基盤をとられ、度重なる住職の交代に妙恩寺は疲弊し、荒寺になってしまいました。
天竜川の氾濫や地震等、追い打ちをかけるような事態にもなりましたが、金原明善翁等の篤信者と五十代目の活躍によりなんとか息を吹き返します。
このころの妙恩寺は、外へ外へと布教の足を延ばしています。
初代の日像上人の京都布教にならい、浜松の街中や東京へも活動拠点を伸ばしていきます。
妙恩寺内の布教も活発化し、春の千部会などは近隣の人々や末寺の檀信徒までが参列するような活気になっていました。
千部会の行程表を見つけましたが、お経とお説教が交互に一日中行われているものでした。
古い檀家さんたちの話では出店も出ていたと言いますから、現在とは比較にならない程の行事を行うまでになっていたようです。

毎年、少しずつの手入れが長持ちをさせる秘訣ですが、戦争をはさんだため行きとどかない修復。
またその修復も大規模になるものが多く。往時の姿に戻すのに約半世紀かかったことになります。
目に見える修復を先行させたため、宝物の手入れに至っては、大正時代に四十八世がまだ小僧時代の五十世きたはらのごぜんさんと共に台帳を作って以来、なんの修復もされない事態が続いていました。
寺観一新はされましたが、後回しにされてきた宝物の修理や崩れつつある檀家制度・墓問題等、古きを守りながらも大きく一歩を進めなければならない時期にきているのが今日の妙恩寺と言えます。

歴代住職からみる妙恩寺七百年は、その時の住職が其の時の社会情勢を見極め、常に先手を打ってきたように見えます。
その基本は、やはり初代住職 日像上人の京都布教における情熱等をこの浜松の地に残していかなければならないと言うことでもあり、その布教の熱意が多くの周りの人達をとりこんできた事が、「妙恩寺は大きなお寺だ。格式が高い寺だ・・・」檀信徒の皆さんはそんな妙恩寺に対し、自慢に思い・誇りに思ってきたのです。

妙恩寺は日蓮宗に属します。

平成十四年に立教開宗七百五十年(日蓮聖人が初めて千葉・清澄寺にて南無妙法蓮華経の御題目をお唱えしてからの年月)を迎えたばかりでの妙恩寺自身の七百年。
もちろん地元・日蓮宗寺院では最古になります。
「妙恩寺は大きなお寺だ。格式が高い寺だ・・・」檀信徒の皆さんはそんな妙恩寺に対し、自慢に思い・誇りに思ってきたはずです。
親戚にも鼻が高い・・・。でもなんで?
説明できますか?

この難題に新米住職が一考察。

「私で五十五代目の住職。一代ずつどんな住職がいて、どんな時代に・どんな事をされてきたのだろう。
もちろん住職だけで、保ってきた寺ではない事は百も承知だ。
それは別の章に譲り、住職は住職を調べてみたらどうだろうか?
そこに、妙恩寺七百年の一側面があるはずだ。」

この寺は幸いなことに先の大戦でも消失を免れ記録は残っているはずだ。
でも、数年前からの宝物の調査で膨大な宝物があることが判明し、その中から資料を探しだし、まとめるのは至難の作業となる。早くも挫折か?・・・。

先代住職の本葬儀の折に檀信徒皆様にお伝えしました「妙恩寺七百年祭はわしがやる」という先代住職の言葉。
最近、遺品の整理をしていたところ、便箋に妙恩寺縁起の草稿が出てきました。
日付が書かれていないので、いつ書かれたものかは確定できませんが、草稿の次のページに総代会議の議事録と思われるメモ書きや、字の力加減から察するに、平成十九年の倒れる直前のものと思われます。
七百年祭の三年前には先代住職は執筆に入っていたわけです。

さらに六百五十年祭を執り行った先々代住職の『長光山歴代記』・六百年祭を行い今でも「北原の御前さん」と親しまれる五十代目住職の『寺門経営記録』。
いつのまにか私の周りに資料が集まってきていました。

お前が書け!

歴代の住職達もそう言っているようです。
私が小さい頃、先々代の内室から聞かされてきた事や今回私の手もとに集まってきた資料をもとに一筆書かなくてはと・・・。
大学時代に国史をかじった御蔭で、かろうじて歴代住職の達筆を判読できることに感謝しつつ書きすすめていきます。