天井裏の家康伝説とは

家康の遠江進駐と妙恩寺の関わりとは

寺伝、天井裏の家康

「三方原の戦いに負けた家康が妙恩寺に逃げ込んできた。
当時の住職 日豪上人が家康を天上裏に隠し食事を御出しした。
後に幕府を開いた家康から土地をもらい、寺紋(○に二引き)を頂いた・・・。」

丸に二引き紋

丸に二引き紋


妙恩寺における言い伝え、地域にも浸透し、同義の紹介文がインターネット上で散見されます。

「天井裏の家康」伝説はそのまま、伝説、美談として大切にしたいストーリーですが、ここではあらためて、史実というフィルターを通した検証を試みたいと考えます。
当事者である妙恩寺にしかなしえない検証、それをしてみたいと思います。

さしあたって、ここをご覧のあなたにも、同じく閲覧ができる資料を提示させていただき、家康遠江進駐のおおまかな流れを、その資料からたどってみます。

永禄11年(西暦1568年)家康、妙恩寺宿陣の史実
(資料)浜松市立中央図書館浜松市文化遺産デジタルアーカイブ

(資料内参照位置)浜松市史 二 第四章第四節 遠江経略 家康の遠江進駐

図録

浜松市博物館特別展「徳川家康四百年」図録より

家康は岡崎を出陣し、1568年12月18日、引馬城へ入る(家忠日記増補追加)流れの中で、妙恩寺へ宿陣しています。

誰もが確認できる史実が、この妙恩寺宿陣であり、家康ご当人が妙恩寺に居たという記録です。(浜松御在城日記)

「天井裏の家康」伝説は、この後1572年「三方原の戦い」で敗走した家康を、妙恩寺本堂の天井裏へ匿った、という言い伝えから生じたストーリーですね。

ただし、記録に残る史実としては、この永禄11年(西暦1568年)の妙恩寺宿陣となります。


1568年12月12日 家康遠江国入り
牛久保~八名郡宇刈~黄楊野~陣座峠~遠江引佐奥山方広寺~井伊谷
1568年12月14日 家康南下、妙恩寺へ
「十二月十四日 家康鹿島、天竜川渡り、米倉 天竜川東を南下、池田より天竜川西へ渡り、橋羽村妙音(※恩)寺に入る。」(家忠日記増補追加と同時期の史料)

12月12日に遠江国に入った家康は、14日に天竜川を鹿島から磐田方面に一旦渡り、南下した上で、池田の渡しから浜松方面に戻り、妙恩寺に陣を置いたようです。

1568年12月18日 頭陀寺から引馬城へ
家康、安間村頭陀寺に本陣を移し、江間加賀守時成家臣小野田彦右衛門の働きにより引馬城に入城。
1572年 三方ヶ原の戦い
天井裏の家康伝説が生まれる背景はどのようなものだったのでしょう

妙恩寺十一代の記録からその背景を推察してみたいと思います。

十一代常住院日豪上人と家康

徳川家康公天竜川御難戦之図

徳川家康公天竜川御難戦之図

十一代 常住院日豪上人 (じょうじゅういん にちごうしょうにん)
在住六十四年(内、法雲寺に十年)メモ程度に天文七年生まれとある。寛永三年七月八日に亡くなる。八十九歳。
三代から十代までは、金原本家より住職が出ていたがここからは師匠から弟子への関係で後継が決まるようになったようです。
脇に中興の文字が見えることから、この時点で庵から本堂等を具える妙恩寺の原型がかたち造られていることがわかります。
九代目日宣上人直弟子であり、妙恩寺歴代の中で最も若く、長く、初代を除いての知名度抜群・その功績抜群であり、この日豪上人の御蔭で妙恩寺は大きくなるきっかけを作っています。
その出自は、武田四名臣の一人である馬場美濃守の末子とある。
いままでの住職は、此の事を後の美談の一つに語ってきたが、これを裏付けるものは今のところ妙恩寺の記録以外にはない。
ちょうど、住職となって約十年、三十四~五歳の頃
岡崎から出てきて浜松城に入城してきた三〇歳になったばかりの若き青年武将・徳川家康と出会う。
永禄十一年 一五六八年 家康 妙恩寺に宿陣 『浜松御在城日記』より。
同年 一二月十八日 安間村に陣を張っていた家康は、同日引馬城に入る 『家忠日記増補追加』より。

同時期の史料 十二月十四日 家康鹿島、天竜川渡り、米倉 天竜川東を南下、池田より天竜川西へ渡り、橋羽村妙音(恩)寺に入る。
十八日 家康、安間村頭陀寺に本陣を移し、江間加賀守時成家臣小野田彦右衛門の働きにより引間城に入城。
『中世時代の掛川』等 の史料から誤字等を加味して考察するに、 永禄十一年十二月十二日に遠江国に入った家康は、十四日に天竜川を鹿島から磐田方面に一旦渡り、南下した上で、池田の渡しから浜松方面に戻り、妙恩寺に陣を置いた。
十八日に頭陀寺を経由して曳馬城(浜松城)に入城した・・・。
この頃は、天竜川以東の土地 駿河国をめぐって今川・武田・徳川と取り合いをするころです。
武田信玄が同十二月に甲府から南下して、今川氏真は戦わずして掛川城へ逃げ込む。
そこへ家康が浜松にやってくる。
掛川城を攻め、翌、永禄十二年 一五六九年 家康と氏真が和議を結んで氏真は伊豆へ移り、家康が掛川までを勢力下に置く。同年八月三日 家康は妙恩寺に対し
禁制(きんせい)
はしハほつけ寺のうち、竹木きりとる事、かたく可令停止者也、もし此旨そむくともからにをひては、みあひにせいはひすへき者也、仍如件、
(意訳)妙恩寺内の竹木を切ってはならない、もし違反するものがあれば(家康が)厳罰にするので心得よ

と、いう禁制を出しています。
禁制・禁令というのは、その経済的役割・軍事的役割・政治的役割があり、寺によっては広大な土地を持ち経済的に独立しているものもあったり、要所に建つので陣を置き、大勢の兵を休ませることもでき、またその土地の人々の心をつかみよりどころとなっていて、一種の治外法権があり、一度争いごとが起った時の民達の避難所になる・・・。
このような土地で乱暴狼藉をさせないということは、よそ者がその土地を治める場合、まずは寺社からとも言える重要な命令なのです。
ます日像上人と家康との関係はこの時点で結ばれていると考えられます。
ここまで、かなり話を引っ張ってしまいましたが、これは次の疑問の為に必要だったのです。

妙恩寺の寺伝には
三方原の戦いに負けた家康が妙恩寺に逃げ込んできた。
当時の住職 日豪上人が家康を天上裏に隠し食事を御出しした。
後に幕府を開いた家康から土地をもらい、寺紋(○に二引き)を頂いた・・・。
とありますが・・・
三方原から浜松城に逃げ込むには、有名な逸話の残る小豆餅・銭取を経由しての道が最短ルートと思えます。
わざわざ、この地に逃げるのは遠回り。
布橋の逸話の説明がつかなくなってしまいます。
私が小さい頃から、先々代や先代から耳にタコが出来るほど聞かされてきた寺伝ですが、疑問を持たずにはいられませんでした。
「歴代住職をばかにするのか!」という声が聞こえてきそうですが、あえてここで、一考察をしたいと思います。
三方原の戦いの捉え方が問題になってくるのです。
桶狭間の戦いに敗れたことで衰退していく今川家に対して、武田信玄と徳川家康はその領土であった駿河を武田がとり、遠江を徳川がとり支配するようになっていましたが、互いに勢力拡大を目指して敵対するようになっていました。
一方、天下統一を目指して上洛を果たした信長と将軍・足利義昭の対立があり、義昭は武田信玄をはじめとする全国の有力大名に信長討伐の命令を下していました。
その命令を受けた武田信玄は、その第一段として同盟者の家康の土地に侵攻してきたのです。
元亀三年 一五七二年九月二十九日
武田信玄は、北の脅威 上杉謙信が季節が冬になり雪で身動きが出来なくなることを見越し、家臣の山形昌景と兵五千が出陣する。
十月三日
武田信玄が二万五千の兵を率いて躑躅ヶ崎館(甲府)を出発
十月十日
武田軍遠江国に侵入する
十月十一日
武田軍が犬居城(浜松市天竜区春野町犬居・秋葉神社付近)に入城
このころ徳川家康 織田信長に何度めかの援軍を要請。
十月十二日
武田軍 馬場信房(日豪上人の父)が只来城(浜松市天竜区只来)を攻撃
天方城・飯田城(森町)落城。
十月十三日
徳川軍三千が浜松城から出撃。
磐田原台地まで進軍するがほど近い三ヶ野(とんぼで有名な樋ヶ谷沼付近)まで武田軍が迫っていたため慌てて撤退を開始する。
撤退する徳川軍を磐田市一言(日蓮宗 本性寺・磐田警察署から浜松方面へ下る坂道)で補足する。
馬場信房等に坂上と坂下から挟み撃ちにされ壊滅状態になる。
徳川軍の猛将 本多忠勝の奮戦により浜松城へ逃げ帰る。
十月下旬
武田軍は、遠江における浜松城に次ぐ重要な城であった二俣城を攻撃するも激しい抵抗にあい、長期戦に突入していった。
十一月十四日
武田別動隊が岩村城(岐阜県岩村町)を攻略。
信長の息子で養子に出ていた坊丸や信長の養母・叔母おつやが人質として拘束される。
十二月上旬
織田信長の援軍が浜松城に到着 これまでに家康は、二俣城を包囲されて出撃したこともあったが戦うことなく引き返したりしている。
十二月十九日
二俣城落城
十二月二十二日
武田軍が二俣城から出撃 浜松城まであと四キロほどの地点で、突然、西へと進路変更。三方原台地へと向かう。
浜松城で待ち構えていた家康は、武田軍の思いもよらない動きを挑発ととり、浜松城から一二キロ北西の祝田の坂(三方原霊園から金指へ向かう坂)での戦いに持ち込もうと出陣する。
武田軍は坂の手前で反転し迎撃態勢を整える。
最初は徳川軍の優勢に始まるも、時間とともに形成が逆転。
家康の戦線離脱 小豆餅・銭取り・布橋・・・。
家康の浜松城への帰還
このように戦いは進みました。

やはり十二月二十二日の冬場に日が暮れるのも早いのに、妙恩寺に逃げ込むのは合点がいきません。
しかし一連の流れの中で、今に伝わる逸話を壊す事無く説明できるヒントがありました。
それは、十月十三日。初めて武田軍と家康が衝突する一言坂の戦いです。一言坂から必死に逃げる家康。

(上図)徳川家康公天竜川御難戦之図

一言坂で武田信玄に敗れた徳川家康は池田の船頭の助けを得て天竜川を渡り浜松へ逃げ帰った。『静岡県歴史の道 東海道』
・・・家康は馬篭にいて平八(本多忠勝)を待っていて、今日の働きは比類なく、我が家の良将とほめられた・・・『浜松城御在城記』

一言坂から池田を経由しても逃げている道は、東海道。妙恩寺を通ります。馬篭へもいけるし、浜松城へも行けます。
本多忠勝を待つ為もありに、かつて陣を敷いて面識のある日豪上人のいる妙恩寺へ逃げこんだ。
妙恩寺歴代はこうも伝えます。
・・・日豪上人の父は武田の有力家臣だが仏の前ではみな平等で敵も味方もないと負けて来た家康を天上裏に隠し御接待した・・・。
日豪上人の父(馬場信房)は徳川軍を破り家康を追って目と鼻の先まで来ています。
(日豪上人は知ってはいないと思いますが)さらには、この日は何と日蓮大聖人の御命日の大法要のある日・御会式。
御接待するような品もちょうどあったにちがいありません。
間違えてはいけないのは、徳川家康が逃げてきた時の本堂は今の本堂ではありません。
もっと小さかったでしょう。
今のようにたくさんの御堂があったわけではありませんから、偉い人が来たのですから、本堂で御接待したのでしょう。
この御接待のおかげで、後に寺紋を頂くことになったのでしょう。
浜松市内には小粥さんという一族がいますが、家紋に丸に二引きを使っているところがあります。
やはり家康に御粥を御接待した縁で頂いたようです。
結果、三方原の戦いで負けた家康を天上裏に隠し難を救ったのではなく、三方原の戦いの前哨戦(一言坂の戦い)で負けた家康を旧本堂へ招き御接待し、難を救った。
三方原の戦いを狭義である今の三方原霊園のあたりであった本番だけでなく、広義に一連の流れすべてを三方原の戦いと見る必要がありますが、こうするとすべてに合点がいくようにならないでしょうか?
歴代住職が伝えた美談が美談でなく本当になり、今の通説を脱線させることもないと思いますが、あくまでも一考察です。
日豪上人はこのあと、前山の圓頓寺(えんどんじ)・鹿島の妙雲寺を開創。家康から浜松・法雲寺を隠居寺として与えられたとあります。
青年であった日豪上人と徳川家康の関係は晩年まで続いたのです。
名実ともに名住職であったのでしょう。
歴代帳の中に記載はありませんが、日蓮宗年表の中に慶長十五年 徳川秀忠時代 二月に身延山は、末寺一般に対し談義常目五カ条を発したとあります。
十年以上前に私が先代住職に聞いたところ、「口は災いのもと、ちゃんと修行した者でないと人前でお説教をしてはならないという命令だ」と。
私は今までに宝物の中から見付出したことは無く、今回発見されれば見てみたいと思っています。