妙恩寺の歴史

歴代住職の足跡からひも解く妙恩寺の歴史

初代

龍華樹院日像菩薩(上人) (りゅうげじゅいんにちぞうぼさつ・しょうにん)
一二六九~一三四二年。鎌倉時代、下総国平賀(千葉県松戸市)に父 平賀忠晴公・母 後の妙朗尼の子として生まれる。日朗上人の異父弟にあたり、七歳で日朗上人の弟子となる。
日朗上人は、日蓮大聖人が弘安五年 一二八二年、池上本門寺で亡くなられる時、その前に、日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日向(にこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)の六人本弟子(六老僧)と定め、後事を託された一人であり、日蓮大聖人が亡くなって六年目、それまで六老僧による集団指導体制だったのだが日興上人が、教義上の問題から弟子を引き連れ身延山をおり、富士山麓に大石寺を創設し、他の五老僧と義絶することになった時でさえ、日興上人側の僧侶からも尊敬される記録がのこることから誰からも敬愛される人柄であり、常に日蓮大聖人のそばに仕え、苦しみをともにした人物。
初代妙恩寺住職は、そんな人物の元に弟子入りするわけですが、師匠の日朗は七歳で入門してきたこの少年が素晴らしい資質の持ち主であることを見抜き、自分の師匠である日蓮大聖人の元へ送ります。
日蓮大聖人もこの少年に期待したのか、本尊を授け(玄旨本尊)、「経一丸」(きょういちまる)と名付けました。以後、晩年の日蓮大聖人のもとで修業に励みます。
日蓮大聖人が亡くなる(入滅)のは、それから七年後。日蓮大聖人は臨終間際に十四歳のこの孫弟子を枕元に呼んで、京都布教の遺命を残します。
経一丸は日蓮大聖人の棺の前で剃髪し「肥後房日像」(ひごぼう にちぞう)と名前を改めて、この遺命を胸にさらに修行されるのです。
毎年日蓮大聖人の命日である十月十三日に行われる御会式(おえしき)の際、妙恩寺本堂に大きな日蓮大聖人の涅槃図が懸けられます。
日蓮大聖人の前に描かれている少年が、妙恩寺初代住職の幼い姿なのです。
全国の日蓮宗寺院に行って日蓮大聖人の涅槃図を見ても必ず同じような構図で描かれています。
日蓮大聖人が亡くなられて十一年後、二十五歳になった日像上人は遺命を果たすべく京都へ上洛することを決意します。
身延・佐渡等を周り北陸路を布教しながら京都に向かい、翌二十六歳(一二九四年)四月二十八日早朝に皇居東門にたって朝日に向かい「南無妙法蓮華経」と第一声をあげます。
以後十数年かけて布教をされていると、その教えが京都中にひろまるにつれ、比叡山僧徒をはじめとする他宗の圧力も強くなり、何度か京都から追い出されることになります。
「三黜三赦(さんちつさんしゃ)・・・三回追い出され、三回許される」
ようやく一三三四年四月十四日に後醍醐天皇から綸旨を賜ります
「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗(いちじょう)円(えん)頓(どん)の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈(せいき)を凝(こら)すべし」
多くの苦労をし、日蓮大聖人の遺命を上洛から四十年目にして果たします。
日蓮大聖人が亡くなられてから五十余年、その二回目の京都追放が一三一一年三月七日に許された直後に建てられたのが妙恩寺なのです。
日蓮大聖人遺命を果たす最中になぜ、浜松の地に来たのか? 前年に母親の死を知らされたこと。また師匠の日朗上人も六十九歳になり、墓参りと京都布教の途中報告をすべく、鎌倉へ向かわれたと聞きます。
先々代の文章を読めば、姉の妙恩尼が京都まで行った帰りに浜松に留まっていることになっている。
その後に、日像上人が鎌倉の日朗上人への京都布教の報告を終え帰り道に浜松の金原法橋邸に寄り、そこで妙恩寺が出来ることになっています。
しかし、これには諸説あり、まずは姉ではなく妹というものから始まり、また、妙恩尼と日像上人共に帰りではなく、それぞれが向かう途中でほぼ真ん中である浜松の地に於いて出会った。などがあます。
どれにせよ、御兄弟が出会った場所が鎌倉・京都というすでに布教が進んでいる地区ではなく未開拓の地であり、また日蓮大聖人が生きている時から親交があり、御題目「南無妙法蓮華経」をお唱えする信仰者であった金原法橋の屋敷であったことが重要なのです。
金原法橋・金原家については別章にて取り上げていただくとして、日蓮宗事典に記載されている内容だけをそのまま載せようと思います。
佐渡流罪の途上にあった日蓮聖人は、文永八年(一二七一)一〇月五日に大田左衛門尉(乗明)、蘇(曽)谷入道と、金原法橋に宛てて「転重軽受法門」という御書を賜わった。
この書の初めに「修利槃特と申は兄弟二人なり、一人もありしかば、すりはんどくと申すなり、各々三人は又かくのごとし、一人来せ給へば三人と存候也」と述べられている。
金原法橋が日蓮聖人の檀越として現れるのはこの一ヵ所であるが、宛名の三人(大田・曽谷・金原)が、宗教上の問題に限らず、他の面においても常に密接な関係にあったことが窺われる。
金原法橋は房総の雄族として知られる千葉氏の一族で、下総国千田庄金原郷(千葉県八日市場市金原)の領主であった。
最近発見された史料(中山法華経寺文書)によると、幕府に公事を納入し、下男を所有していることから、金原の地における地頭としての立場にあったと思われる。
日蓮聖人が鎌倉を中心に布教活動を展開していた頃、富木常忍は千葉氏の被官として活躍する一方、聖人の信者としてその伝道生活を支えていた。
下総国の諸地域に住む武士たちは、守護の千葉氏とのさまざまな交渉に当って、実際には事務を司どる富木常忍と折衝を重ねた。
金原氏もこれに例外ではなく、建長五年(一二五三)ころには下人のこと、公事のことなどで富木常忍に相談を持ちかけている。
このような機縁によって、富木常忍に導かれて日蓮聖人の信者となったのであろう。
ところで金原法橋の住む金原郷には、安久山堂という寺院があり、後に日蓮宗の寺院として改宗した。
その住職が金原氏惣領で後に出家した覚諭であり、当寺の歴代は「日諭・常諭・覚諭」と次第する(円静寺板本尊)。
この日諭の頃がちょうど日蓮聖人在世の当時に当るから、金原法橋が日諭と号したことは恐らく間違いないと思われる。
しかし史料上の制約によって断定するまでには至らないとしても、少なくとも千田庄の金原氏であることは見当づけられる。
従来、金原を「キンバラ」と読んでいるが、これは駿河在住の一族金原氏の読みを伝承したものである。『日蓮宗事典』
金原法橋は、浜松の地に移ってこられて現在の妙恩寺付近がその邸宅であったようです。
妙恩寺北側の天龍川町の一部を「殿屋敷」と言うのはこの名残なのかもしれません。
諸説がありますが、このたび修復した弘安三年 一二八〇年(日蓮大聖人五九歳 亡くなる二年前)の日蓮大聖人本人が書かれた曼荼羅は金原家より妙恩寺へ納められたもので、この地に「南無妙法蓮華経」のお題目をお唱えする中心的人物がいたことは間違いがないことでしょう。
さて、日像上人は一三四二年に七四歳で亡くなります。
日像上人・妙恩尼・金原法橋という三名がドラマチックに出会った場所がこの妙恩寺なのです。
ちなみに、皆さんの年忌法要や葬儀の折に、住職が最初に唱え始める勧請というところで初代住職名を言うことになっています。
他寺では○○寺開山 ××上人と言っていますが、私は、初代住職日像上人を「日像菩薩(にちぞうぼさつ)」と言っています。
さらには「日蓮大菩薩」(にちれんだいぼさつ)とも言っています。
これは、京都・妙顕寺の後を弟子の大覚(だいがく)に譲ります。
この大覚が後に、雨乞いの祈祷の成功によって大僧正に任ぜられた時に、日蓮に「大菩薩」、日朗・日像に「菩薩」の称号を賜ることによります。
歴史中の日蓮宗僧侶で菩薩の名を冠するのはこの三名だけです。

創立後の足跡

二代 妙恩院日如上人 (みょうおんいん にちにょしょうにん)
妙恩寺歴代の中で唯一の女性。
妙恩尼(みょうおんに)ともいう。
妙恩寺歴譜には日像の姉 (先々代記録には妹と訂正跡有)で三十五年間(在住三十五年)妙恩寺にいて法華経を弘める活動をしていたとある。
貞和二年 一三四六年(日蓮宗年表には貞和四年)に亡くなっている。
このころの日本は、将軍・足利尊氏のもと室町時代に入ってきている。
妙恩寺の記録には「法橋は尼の為に庵を結び・・・」とあることから、このころは本堂があって・・・というような形では無く、金原法橋邸内の小さな庵から始まったようだが、歴譜にある金原法橋の欄に「邸内に法華道場を開き本国宗門最初の寺たらしむ」との記載から次第に金原法橋私邸からお寺へと姿を変えていったようです。
三代 寿量院日顕上人 (じゅりょういん にちけんしょうにん)
足利義満の時代。
応安二年 一三六九年 正月晦日に亡くなっている。
在住七年(十三年に訂正が入っている) 金原本家歴世 血統法橋子となっている。
この後十代目までは金原家から住職が出ている。何軒かの檀家から「うちから妙恩寺住職になっている」と聞かされているが、現在どの金原家がその後裔になるかは不明。
最終的には金原の宗家から出ているのだが・・・。
四代 顕本院日寿上人 (けんぽんいん にちじゅしょうにん)
在住十七年。 至徳三年 一三八六年 四月七日に亡くなっている。
三代と同じく金原本家歴世 法橋孫とある。
五代 了遠院日義上人 (りょうおんいん にちぎしょうにん)
将軍・足利義持・義量の頃。
在住三十八年 応永三十年 一四二三年 十月十三日に亡くなっている。
一三九七年に足利義満が金閣寺を建立している。
金原本家歴世 法橋曾孫とある
六代 圓心院日鏡上人 (えんしんいん にちきょうしょうにん)
足利義政・義尚の時代 室町幕府の根幹が揺らぐような事件が起こったころの住職。
一四六七年~一四七七年まで続いた応仁の乱が起っている。
将軍の跡継ぎ問題に有力家臣(守護大名)等が加わり、一時治まっていた不穏な空気が漂い始めたころと言える。
在住五十三年 文明九年 一四七七年 正月十七日に亡くなっている。
かなりの長期にわたり住職を務められた。
金原本家歴世 法橋玄孫とある。
七代 三性院日縁上人 (さんせいいん にちえんしょうにん)
在住十三年 延徳元年 一四八九年 二月二八日に亡くなっている。
足利義尚の時代。
先代将軍義政等と仲良くいかず、側近同士で武力衝突が起るなどして、足利義政は剃髪し出家し事実上、政治の世界から遠ざかる 一四八五年。
この後、東山山荘 今の銀閣寺の造営にはいり、わびさびに代表される「東山文化」を形作り文化的には功績があったが、世の中の不安は日増しにましているころだと言える。
八代 持戒院日現上人 (じかいいん にちげんしょうにん)
在住二十八年 永正十三年 一五一六年 正月一日に亡くなられている 金原家歴世
十代将軍 足利義稙の時代 京都周辺では応仁の乱後も有力者達の小競り合いが続き、将軍自体が亡命するなど不安は取り除かれていない時代。
九代 常在院日宣上人 (じょうざいいん にっせんしょうにん)
在住二十八年 弘治二年 一五五六年 一一月十二日に亡くなっている。
十三代将軍 足利義輝の時代。
幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。
大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、将軍の威信を知らしめた。
諸大名に自分の名の一字「輝」を与える(毛利輝元・伊達輝宗・上杉輝虎のちの謙信)等活躍するが、京都の火種は地方に飛び火し、このころには後の戦国大名と呼ばれる者達が誕生している。
十代 了心院日受上人 (りょうしんいん にちじゅしょうにん)
在住六年 永禄六年 一五六三年 一月十九日に亡くなっている。
この二年後に永禄の変が起り、将軍足利義輝討死にし将軍が空席になり、この将軍の後継問題の流れの中で、足利義昭を候補に推す織田信長の登場となる。
いよいよ戦国時代という頃である。

十一代常住院日豪上人と家康

徳川家康公天竜川御難戦之図

徳川家康公天竜川御難戦之図

十一代 常住院日豪上人 (じょうじゅういん にちごうしょうにん)
在住六十四年(内、法雲寺に十年)メモ程度に天文七年生まれとある。寛永三年七月八日に亡くなる。八十九歳。
三代から十代までは、金原本家より住職が出ていたがここからは師匠から弟子への関係で後継が決まるようになったようです。
脇に中興の文字が見えることから、この時点で庵から本堂等を具える妙恩寺の原型がかたち造られていることがわかります。
九代目日宣上人直弟子であり、妙恩寺歴代の中で最も若く、長く、初代を除いての知名度抜群・その功績抜群であり、この日豪上人の御蔭で妙恩寺は大きくなるきっかけを作っています。
その出自は、武田四名臣の一人である馬場美濃守の末子とある。
いままでの住職は、此の事を後の美談の一つに語ってきたが、これを裏付けるものは今のところ妙恩寺の記録以外にはない。
ちょうど、住職となって約十年、三十四~五歳の頃
岡崎から出てきて浜松城に入城してきた三〇歳になったばかりの若き青年武将・徳川家康と出会う。
永禄十一年 一五六八年 家康 妙恩寺に宿陣 『浜松御在城日記』より。
同年 一二月十八日 安間村に陣を張っていた家康は、同日引馬城に入る 『家忠日記増補追加』より。

同時期の史料 十二月十四日 家康鹿島、天竜川渡り、米倉 天竜川東を南下、池田より天竜川西へ渡り、橋羽村妙音(恩)寺に入る。
十八日 家康、安間村頭陀寺に本陣を移し、江間加賀守時成家臣小野田彦右衛門の働きにより引間城に入城。
『中世時代の掛川』等 の史料から誤字等を加味して考察するに、 永禄十一年十二月十二日に遠江国に入った家康は、十四日に天竜川を鹿島から磐田方面に一旦渡り、南下した上で、池田の渡しから浜松方面に戻り、妙恩寺に陣を置いた。
十八日に頭陀寺を経由して曳馬城(浜松城)に入城した・・・。
この頃は、天竜川以東の土地 駿河国をめぐって今川・武田・徳川と取り合いをするころです。
武田信玄が同十二月に甲府から南下して、今川氏真は戦わずして掛川城へ逃げ込む。
そこへ家康が浜松にやってくる。
掛川城を攻め、翌、永禄十二年 一五六九年 家康と氏真が和議を結んで氏真は伊豆へ移り、家康が掛川までを勢力下に置く。同年八月三日 家康は妙恩寺に対し
禁制(きんせい)
はしハほつけ寺のうち、竹木きりとる事、かたく可令停止者也、もし此旨そむくともからにをひては、みあひにせいはひすへき者也、仍如件、
(意訳)妙恩寺内の竹木を切ってはならない、もし違反するものがあれば(家康が)厳罰にするので心得よ

と、いう禁制を出しています。
禁制・禁令というのは、その経済的役割・軍事的役割・政治的役割があり、寺によっては広大な土地を持ち経済的に独立しているものもあったり、要所に建つので陣を置き、大勢の兵を休ませることもでき、またその土地の人々の心をつかみよりどころとなっていて、一種の治外法権があり、一度争いごとが起った時の民達の避難所になる・・・。
このような土地で乱暴狼藉をさせないということは、よそ者がその土地を治める場合、まずは寺社からとも言える重要な命令なのです。
ます日像上人と家康との関係はこの時点で結ばれていると考えられます。
ここまで、かなり話を引っ張ってしまいましたが、これは次の疑問の為に必要だったのです。

妙恩寺の寺伝には
三方原の戦いに負けた家康が妙恩寺に逃げ込んできた。
当時の住職 日豪上人が家康を天上裏に隠し食事を御出しした。
後に幕府を開いた家康から土地をもらい、寺紋(○に二引き)を頂いた・・・。
とありますが・・・
三方原から浜松城に逃げ込むには、有名な逸話の残る小豆餅・銭取を経由しての道が最短ルートと思えます。
わざわざ、この地に逃げるのは遠回り。
布橋の逸話の説明がつかなくなってしまいます。
私が小さい頃から、先々代や先代から耳にタコが出来るほど聞かされてきた寺伝ですが、疑問を持たずにはいられませんでした。
「歴代住職をばかにするのか!」という声が聞こえてきそうですが、あえてここで、一考察をしたいと思います。
三方原の戦いの捉え方が問題になってくるのです。
桶狭間の戦いに敗れたことで衰退していく今川家に対して、武田信玄と徳川家康はその領土であった駿河を武田がとり、遠江を徳川がとり支配するようになっていましたが、互いに勢力拡大を目指して敵対するようになっていました。
一方、天下統一を目指して上洛を果たした信長と将軍・足利義昭の対立があり、義昭は武田信玄をはじめとする全国の有力大名に信長討伐の命令を下していました。
その命令を受けた武田信玄は、その第一段として同盟者の家康の土地に侵攻してきたのです。
元亀三年 一五七二年九月二十九日
武田信玄は、北の脅威 上杉謙信が季節が冬になり雪で身動きが出来なくなることを見越し、家臣の山形昌景と兵五千が出陣する。
十月三日
武田信玄が二万五千の兵を率いて躑躅ヶ崎館(甲府)を出発
十月十日
武田軍遠江国に侵入する
十月十一日
武田軍が犬居城(浜松市天竜区春野町犬居・秋葉神社付近)に入城
このころ徳川家康 織田信長に何度めかの援軍を要請。
十月十二日
武田軍 馬場信房(日豪上人の父)が只来城(浜松市天竜区只来)を攻撃
天方城・飯田城(森町)落城。
十月十三日
徳川軍三千が浜松城から出撃。
磐田原台地まで進軍するがほど近い三ヶ野(とんぼで有名な樋ヶ谷沼付近)まで武田軍が迫っていたため慌てて撤退を開始する。
撤退する徳川軍を磐田市一言(日蓮宗 本性寺・磐田警察署から浜松方面へ下る坂道)で補足する。
馬場信房等に坂上と坂下から挟み撃ちにされ壊滅状態になる。
徳川軍の猛将 本多忠勝の奮戦により浜松城へ逃げ帰る。
十月下旬
武田軍は、遠江における浜松城に次ぐ重要な城であった二俣城を攻撃するも激しい抵抗にあい、長期戦に突入していった。
十一月十四日
武田別動隊が岩村城(岐阜県岩村町)を攻略。
信長の息子で養子に出ていた坊丸や信長の養母・叔母おつやが人質として拘束される。
十二月上旬
織田信長の援軍が浜松城に到着 これまでに家康は、二俣城を包囲されて出撃したこともあったが戦うことなく引き返したりしている。
十二月十九日
二俣城落城
十二月二十二日
武田軍が二俣城から出撃 浜松城まであと四キロほどの地点で、突然、西へと進路変更。三方原台地へと向かう。
浜松城で待ち構えていた家康は、武田軍の思いもよらない動きを挑発ととり、浜松城から一二キロ北西の祝田の坂(三方原霊園から金指へ向かう坂)での戦いに持ち込もうと出陣する。
武田軍は坂の手前で反転し迎撃態勢を整える。
最初は徳川軍の優勢に始まるも、時間とともに形成が逆転。
家康の戦線離脱 小豆餅・銭取り・布橋・・・。
家康の浜松城への帰還
このように戦いは進みました。

やはり十二月二十二日の冬場に日が暮れるのも早いのに、妙恩寺に逃げ込むのは合点がいきません。
しかし一連の流れの中で、今に伝わる逸話を壊す事無く説明できるヒントがありました。
それは、十月十三日。初めて武田軍と家康が衝突する一言坂の戦いです。一言坂から必死に逃げる家康。

(上図)徳川家康公天竜川御難戦之図

一言坂で武田信玄に敗れた徳川家康は池田の船頭の助けを得て天竜川を渡り浜松へ逃げ帰った。『静岡県歴史の道 東海道』
・・・家康は馬篭にいて平八(本多忠勝)を待っていて、今日の働きは比類なく、我が家の良将とほめられた・・・『浜松城御在城記』

一言坂から池田を経由しても逃げている道は、東海道。妙恩寺を通ります。馬篭へもいけるし、浜松城へも行けます。
本多忠勝を待つ為もありに、かつて陣を敷いて面識のある日豪上人のいる妙恩寺へ逃げこんだ。
妙恩寺歴代はこうも伝えます。
・・・日豪上人の父は武田の有力家臣だが仏の前ではみな平等で敵も味方もないと負けて来た家康を天上裏に隠し御接待した・・・。
日豪上人の父(馬場信房)は徳川軍を破り家康を追って目と鼻の先まで来ています。
(日豪上人は知ってはいないと思いますが)さらには、この日は何と日蓮大聖人の御命日の大法要のある日・御会式。
御接待するような品もちょうどあったにちがいありません。
間違えてはいけないのは、徳川家康が逃げてきた時の本堂は今の本堂ではありません。
もっと小さかったでしょう。
今のようにたくさんの御堂があったわけではありませんから、偉い人が来たのですから、本堂で御接待したのでしょう。
この御接待のおかげで、後に寺紋を頂くことになったのでしょう。
浜松市内には小粥さんという一族がいますが、家紋に丸に二引きを使っているところがあります。
やはり家康に御粥を御接待した縁で頂いたようです。
結果、三方原の戦いで負けた家康を天上裏に隠し難を救ったのではなく、三方原の戦いの前哨戦(一言坂の戦い)で負けた家康を旧本堂へ招き御接待し、難を救った。
三方原の戦いを狭義である今の三方原霊園のあたりであった本番だけでなく、広義に一連の流れすべてを三方原の戦いと見る必要がありますが、こうするとすべてに合点がいくようにならないでしょうか?
歴代住職が伝えた美談が美談でなく本当になり、今の通説を脱線させることもないと思いますが、あくまでも一考察です。
日豪上人はこのあと、前山の圓頓寺(えんどんじ)・鹿島の妙雲寺を開創。家康から浜松・法雲寺を隠居寺として与えられたとあります。
青年であった日豪上人と徳川家康の関係は晩年まで続いたのです。
名実ともに名住職であったのでしょう。
歴代帳の中に記載はありませんが、日蓮宗年表の中に慶長十五年 徳川秀忠時代 二月に身延山は、末寺一般に対し談義常目五カ条を発したとあります。
十年以上前に私が先代住職に聞いたところ、「口は災いのもと、ちゃんと修行した者でないと人前でお説教をしてはならないという命令だ」と。
私は今までに宝物の中から見付出したことは無く、今回発見されれば見てみたいと思っています。

昭和に至るまでの歴代

十二代 了雲院日登上人 (りょううんいん にっとうしょうにん)
在住二十年 寛永十二年 一六三五年 九月十日に亡くなっている。
日豪上人直弟 寺島・妙教寺を開創 位牌には甲州産とあり。
圓頓寺縁起には、加藤肥後守清正公の子とあり、妙恩寺再鋳造前の梵鐘の造立主に身延山第二十一世寂照院日乾上人(じゃくしょういんにちかんしょうにん)鐘銘ありとしるす。
江戸時代に入り、三代将軍 徳川家光の時代になっている。
加藤清正の子ということにびっくりするが、すでに圓頓寺は無くこれ以上の調査は不可能だが、現在鐘楼堂のとなりの清正堂(せいしょうどう 加藤清正を祀る)はこの地区では、めずらしくしかも江戸時代の妙恩寺絵図では、権現堂(ごんげんどう 家康を祀る 東照宮・東照霊屋)と名を変えている時期がある。
建物の瓦には妙恩寺唯一の葵の御紋(他は丸に二引きの寺紋)を頂き、中の向かって右に歴代徳川将軍の位牌があり、正面に加藤清正像を祀っている。
日蓮宗的には、熱烈な信者であり神格化され九州、特に熊本では「せいしょこさん」と言って慕われ、崇められているが、この浜松は江戸幕府の要所。
出世城と言われ幕府の要人になるひとが多く出た場所です。
ご存じ加藤家は江戸幕府により御取りつぶしになった家です。
それを表だって拝むこともできなかったのでは?
明治以降の絵図になると権現堂は清正堂と記されている師匠の日豪上人と家康との関係と自分の出生と信仰を考え、複雑な祀り方をしたとも考えられます。
十三世 円詔院日閑上人 (えんしょういん にちかんしょうにん)
寛永十九年 一六四二年 二月二十八日に亡くなっている。野辺の妙満寺開山
十四世 了性院日遥上人 (りょうしょういん にちようしょうにん)
在住四十年 元禄九年 一六九六年 十二月二十二日に亡くなっている。
十五世 真海院日護上人 (しんかいいん にちごしょうにん)
九月十二日に亡くなったという記載しかない。
十六世 義光院日空上人 (ぎこういん にちくうしょうにん)
在住二十年 元禄元年一月十日に亡くなる。亡くなってから住職が交代するわけではないので、十四世が長命だったということがわかる。徳川綱吉の時代。
十一世日豪上人同様、中興(ちゅうこう)の記載がある。
本堂の仏像を造立 元禄六年七月七日奉安とある。
昭和四二年で二百八十年目のメモ書きがある。
現在、本堂で使われている仏像は平成二十二年段階で三百二十年余経っていることがわかる。
半鐘並びに鰐口鋳造とあるが大東亜戦争供出の記載があり現存しない。
浜北平口の妙蓮寺 阿多古の長石寺開山
十七世 大恵院日解上人 (だいけいいん にちげしょうにん)
在住四年 元禄十二年 一六九九年 九月十四日に亡くなっている。
以下はあまりに達筆すぎて読めず。
三つの手元史料から学識豊かで当時の全国さまざまな僧侶教育機関にて講義をすることを専門にしていたようです。
上総国(千葉県中部) 魚津・妙覚寺住職の記載もあり。
十八世 紫雲院日逢上人 (しうんいん にっぽうしょうにん)
在住十五年 享保四年 一七一九年 五月二五日に亡くなる。徳川吉宗の時代。

「手書き日逢」と呼ばれ達筆であったらしい。
在住中、七面堂、宝塔堂建立
宝塔堂は現在無く、いつまであったかもわからない。
七面堂は、私の幼少期にはあったので今から三十年程前までは現存していた。
過去帳開録とある。


この住職以降の過去帳記録があることになる。
金原本家等の特別な場合を除き、徳川吉宗時代からの戒名を保管していることになる。
どこのお寺でもだいたい同じことが言えます。
これは、江戸幕府の政策で寺請制度 宗門人別改帳などキリスト教など禁教政策の流れの中で、ようするに檀家制度がこのあたりから始まり、全国に浸透してきたころと言えます。
ちなみに妙恩寺の過去帳は私の手元の物で第十三号となっています。
すでに崩壊しつつする物もあり、早急に手を打たなければと思っています。
御曼荼羅や遺墨数点があることになっています。

十九世 本妙院日逞上人 (ほんみょういん にっていしょうにん)
正徳二年 一七一二年正月十八日に亡くなっている。加歴
加歴とは、実際に住職として在住していなかったが、何らかの理由でその寺の住職として名を残すことになることを歴代に加えるという意味で、加歴という。
十九世がどのような理由で歴代住職に名を連ねることになったかは不明。
二十世 遠照院日沾上人 (おんしょういん にってんしょうにん)
在住十五年 享保十九年九月六日に亡くなっています。
歌人 別の名として日総という。
享保九年八月十八日に妙恩寺にて和歌会を開き主役を務める。
二首記載があるが一つは読み切れない。

古寺の月
さやけしの 軒の松風 鐘の音 澄み渡る寺の 秋の夜の月

尋紅葉
秋といへばまた木に○○・・・・・尋ねても○山の紅葉ば

この住職の書かれた御曼荼羅御本尊が鶴見 齋藤に有と書かれていますが、どの家かは特定できていません。
現在の沼津市にいた、臨済宗中興の祖(衰退していた臨済宗を再び盛んにした人)と呼ばれる白隠禅師(はくいんぜんじ 白隠 慧鶴・はくいん えかく)と交流があり、白隠禅師から「南無妙法蓮華経」の一遍首題を頂いています。
又聞きでありますが、この一遍首題は三幅しかなく、ひとつは別のお寺に、ひとつは出身地の沼津の子孫に、もうひとつがこの妙恩寺にあると聞いたことがあります。
かつて臨済宗の僧侶に「白隠禅師が書かれたお題目の字が日蓮宗にあると聞いたがどこにあるのか」と聞かれ「うち(妙恩寺)です」と答えたところ「そんなはずないだろ!」と叱責された記憶があります。

二十一世 玄明院日成上人 (げんみょういん にちじょうしょうにん)
在住一年 享保十一年四月九日に亡くなっている。 他に記載なし
二十二世 一中院日如上人 (いっちゅういん にちにょしょうにん)
在住十一年 宝暦三年 一七五三年 七月一日に亡くなっている
大阪 堺の生まれ 身延山の○古庵主 正住院日中上人附弟とあり。
身延で講義をする傍ら他寺の住職も務める。徳川家重の時代
二十三世 蓮実院日報上人 (れんじついん にっぽうしょうにん)
在住半年 天文二年 一七三六年 十一月七日 他に記載なし。
二十四世 蓮寿院日泰上人 (れんじゅいん にったいしょうにん)
在住六年 寛保三年 一七四三年 二月一六日 四十四歳で亡くなっている
現在の山梨県南巨摩郡富士川町に産まれる。 身延にある学校(檀林)で講義をされていた。妙恩寺大鐘再鋳造主(大東亜戦争に供出 昭和十六年十月)庫裡(住職が普段いるところ)再建
二十五世 仁譲院日淳上人 (にんじょういん にちじゅんしょうにん)
在住十二年 宝暦四年 一七五四年 一一月十九日に亡くなっている。
本堂再建発起 総費用六百両のうち二百両を提供する。
二十六世 大慈院日啓上人 (だいじいん にちけいしょうにん)
在住九年 宝暦十三年 一七六三年 七月二十七日に亡くなっている。
二十五世の遺弟として本堂再建成就 工期七年。

現在の本堂はこの時の本堂が元になっている。
改修を重ねているとはいえ、二百五十年程は経っていることがわかる。
浜松市南区鶴見町には、齋藤家が多く存在しますが、先々代から現本堂の柱全てをこの鶴見の齋藤一族が寄付をしたと聞かされています。
今回、本堂旧棟札に施主齋藤氏の文字が読み取れたので間違いないでしょう。

東区長鶴町にある檀家の過去帳には「鶴見・齋藤を除き金七両寄付」の文字。
本家筋に当たる齋藤一族の負担は、質素倹約を旨とした徳川吉宗以降での負担としてはいかばかりだろうかと思います。
これ以降、齋藤一族は金原一族と共に妙恩寺の二本柱として護持の任に当たっていると歴代住職が伝えています。
この齋藤一族がなぜ妙恩寺の檀家に多いのか?

鶴見の齋藤もいくつかに分かれていると聞きますが、その本流に当たるのは戦国時代の美濃(岐阜県)の齋藤道三という戦国大名にさかのぼります。
齋藤道三は日蓮宗の信徒であったと言われています。
事実、齋藤道三の祖父は京都の本山・妙覚寺の僧侶であったとされ、また道三の息子にも日饒(妙覚寺十九世住職)、日覚(常在寺六世住職)といった日蓮宗僧侶がいます。
史実では、齋藤道三は美濃の戦国領主として天文二十三年(一五五四年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治二年(一五五六年)四月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。となっています。

齋藤道三が子の義龍と義絶した理由について、道三が義龍よりも他の弟達を可愛がり、一度は譲った家督を他の弟に変えようとしたことが、義龍の耳に入った為、弟達を殺して道三に対して挙兵したと言われています。
僧侶になった兄弟・織田信長に嫁いだ帰蝶・きちょう(濃姫)を除き、孫四郎(龍元、龍重)・喜平次(龍之、龍定)・利尭(利堯、玄蕃助)・長龍(利興、利治)、がこの兄、義龍の標的になったわけですが、その中の孫四郎がこの浜松の地に逃げ延びて来たと思われます。

妙恩寺に残る家ごとの過去帳には、この齋藤本家の家名の欄に孫四郎と書かれ、何代にもわたり、その当主が「孫四郎」の名を継いで名乗っていることが記載されています。
推測するに、京都の弟達からの推薦があったかもしれませんが、日蓮宗にすでに縁のある一族が浜松に堕ち延び、家が再興され妙恩寺の外護者として本堂再建に最も力をいれてくださったのでしょう。
さらには、少し前に、村越宗家の欄に明暦の大火(明暦三年一月十八日 現在に直すと一六五七年三月二日から二日間にわたり当時の江戸の大半を焼き尽くす大火災)で焼野原になった江戸に木材を運搬し、田原屋と号して材木商となって富を築いていた一族がいた。
もともとその流れの一族が明治の段階で磐田郡田原村と呼ばれる所に昔から住んでいた。
天竜川の中州みたいなところだったのか、度重なる洪水被害の為、一族郎党が村を移転した。
村ごと引越しをしたので、その一族を「村越」と言うと書かれていました。
東区中野町と天竜川河口付近、現・磐田市竜洋町付近に多くいる。
この一族が妙恩寺の檀家に加わってきます。

ここからは五十代目の住職の考証が添えられていますが、それは村越一族がなぜ妙恩寺の檀家になったのかという文であります。
「村越一家宗門に就いては、田原村に直檀・新池新左ェ門の遺族ありして以て祖先本宗を信じ一族。中野町移住後この村に松林寺ありしも特に遠き当山檀家になりしものならん」

(訳)村越一族は日蓮宗内に於いては、田原村に直檀(じきだん)新池(にいけ)さんの遺族がいたので、先祖代々、日蓮宗を信仰してきた一族だった。中野町に移住しても近くに、曹洞宗の松林寺等があるにもかかわらず、わざわざ遠い妙恩寺檀家になったのはこのような理由だろう」

もともと住んでいた田原村に、新池(にいけ)さんの土地があったといわれる。
新池さんは、総本山五十九世日亨上人の著された「弟子檀那列伝」には、「新池左衛門尉。遠江の国磐田郡の新池(袋井在)に住して日興上人に依って入信せられたであろう、尼と共に純真の人であった」と記されております。
信徒としてのあり方を御指南された『新池御書』等を与えられています。
金原法橋と同じように日蓮大聖人を支えていた一族ということがわかります。
この新池さんの信仰していた教えに、同じ場所に住んでいた村越さんたちが同調していったのでしょう。
だから、近くに他宗のお寺があってもわざわざ遠くの、日蓮宗・妙恩寺の檀家になったのでしょう。

村越一族は、木材を取り扱う専門家であったようであり、今回常経殿の棟札には「肝煎」(きもいり)と称し、総代・世話人と大工との調整役として名前が残っていました。
この時の本堂を建設するにあたり、寄付をする齋藤一族、そして運搬・加工等を村越一族が受け持ったのかもしれません。
このように、現在の妙恩寺檀家中で数が多い一族は、この頃に入檀してきたと思われます。
金原一族の氏寺(うじでら)の側面が強かった妙恩寺は、この本堂建築と共に、檀家寺(だんかでら)となっていく様子が窺えます。


二十七世 本妙院日永上人 (ほんみょういん にちえいしょうにん)
在住四ヶ月 宝暦十二年 一七六二年 八月十日に亡くなっている。その他記載なし。
二十八世 宣示院日専上人 (せんじいん にっせんしょうにん)
在住十年 安永八年 一七七九年 六月十五日に亡くなっている。
身延等で講義をされたり、駿河国・大慶寺二十一世 甲斐国・落居本照寺十三世等を歴任している。
二十九世 千如院日宥上人 (せんにょいん にちゆうしょうにん)
加歴 宝暦十二年 一七六二年 十二月二十六日に亡くなっている。
なぜ加歴になったか等は記載がなく判らない。
三十世 慈静院日教上人 (じせいいん にちきょうしょうにん)
在住十五年 寛政九年 一七九七年 五月十三日に亡くなっている。
日蓮大聖人五百遠忌を執り行う。
三十一世 義天院日研上人 (ぎてんいんにちけんしょうにん)
在住十六年 寛政十二年 一八〇〇年 八月六日に亡くなっている。
本堂茅葺屋根を瓦に葺き替えする。
七面堂を茅葺屋根を瓦に葺き替えし並びに向背を作る。
番神堂(現存せず)再建並びに屋根の葺き替え。
寛政元年 一七八九年の大洪水にあい、田んぼ等に砂をいれ土地を開発する。
三十二世 耐詔院日政上人 (たいしょういん にっせいしょうにん)
在住二十二年 文政五年 一八二二年 正月二十五日に亡くなっている。
身延で講義等をされている。
駿河国 東漸寺二十二世を努める。
文化四年 一八〇七年 五月十六日に日政上人身延へ登山にて不在中、庫裡・書院・物置等を焼失する。
総門建立 庫裡再建間口十間 奥行七間 草葺き(元代官所の建物改造。)平成二十二年現在、以前の庫裡がこれにあたる。
西区志都呂町の方から移築したと聞く。
将軍 徳川家斉の頃
三十三世 蓮妙院日運上人 (れんみょういん にちうんしょうにん)
在住七年 天保三年 一八三二年 二月十三日に亡くなっている。
いろいろなところで講義をされている。 落居本照寺二十世 一谷妙照寺四十一世に加歴。
土蔵三間四面建立 本堂唐戸四枚、日朝上人像・加藤清正公像造立 裏門建立。
音楽器一式寄進有。本堂賽銭箱(平成六年の本堂大改修にて解体し現存せず)開山堂修繕 歴代大位牌造立 鐃鉢一双作成(追加で銅鑼・鐃鉢は昭和四十二年で百二十七年目とある。平成二十二年現在、浜北区平口妙蓮寺に有。)
三十四世 慈音院日定上人 (じおんいん にちじょうしょうにん)
加歴 文政七年 一八二四年 八月二十日に亡くなっている。
三十世日教上人の弟子 岩倉妙感寺の住職。蔵書八箱を妙恩寺に奉納した功績をもって歴代住職として名を残すことになった。
三十五世 了義院日順上人 (りょうぎいん にちじゅんしょうにん)
在住五年 天保二年九月十二日(二十二日)に亡くなっている。
一旦は加歴と書かれながら、線が引かれている「満師代(三十六世)掘中 本乗坊(現、三方原本乗寺)住 当山一老 瑞明院日識在勤」とある。
(意訳)妙恩寺の塀の中にある 四ヶ坊中の代表である本乗坊の瑞明院日識上人(ずいめいいん にっしきしょうにん)が普段居た。
入寺されながら、ほとんど留守だった日順住職に代わり、妙恩寺という本院に対し四ヶ坊の支院で支えていた時代と推察します。
三十六世 瑞泉院日満上人 (ずいせんいん にちまんしょうにん)
在住二十二年 嘉永七年 七月二十二日 数六十歳(五十八歳)で亡くなっている。

妙恩寺歴代の中で名住職多けれど、私はこの住職も妙恩寺発展の大きな担い手と思います。


歴代住職が日満上人の欄に後から加えた筆に「徒弟多く在家・筆子・弟子少なからず 名僧の誉れ高し」とあります。
私は現在、檀信徒の家にある御曼荼羅は、三十二世のものもありますが、三十六世日満上人のものが群を抜いて多く現存していることを確認しています。
山梨県の産まれで、身延山にて多くの講義をしています。
妙恩寺の住職を「住職」と呼ばず「御前さま」「御前さん」と呼ぶようになったのは、この方からのようです。
「永代緋紋初祖」と言って、これ以降現在に至るまで、妙恩寺の住職は緋色の袈裟を付けるようになったのです。
鐘楼再建、東照霊屋再建(十二世参照)、 宝蔵再建、 御開山五百遠忌挙行(初代 日像菩薩五百年忌)、そして毎年四月に行われる千部会(せんぶえ)を発願した時の住職です。
三十代で住職になり、身延で多くの僧侶を教育し、浜松でも多くの弟子達をつくり、妙恩寺に今残る年中行事を整備し、建物の建造などを次々とこなしました。
「超」名住職と呼ぶにふさわしい方だと言えます。
第十三代将軍 徳川家定時代 嘉永七年一月一四日(現二月十一日)にペリーが軍艦七隻を率いて江戸湾に来航。大きく日本が動き出そうと言う時期。

三十七世 僧那院日船上人 (そうないん にっせんしょうにん)
加歴 安政元年 一八五四年 十一月二十二日に亡くなっている。その他記載無
三十八世 瑞遠院日泉上人 (ずいえんいん にっせんしょうにん)
在住三年 明治十九年三月三日に亡くなっている。その他記載無
三十九世 瑞義院日逞上人 (ずいぎいん にっていしょうにん)
加歴 慶応三年 一八六七年 一月二十八日に亡くなっている。
三十六世弟子 柚野光徳寺歴代 浜北宮口恩光寺二十世 七十二歳
四十世 瑞豊院日光上人 (ずいほういん にちこうしょうにん)
在住八年 文久三年 一八六三年 十一月十六日に亡くなっている
四十一世 瑞養院日然上人 (ずいよういん にちねんしょうにん)
在住三年 明治二十三年 一八八九年 二月二日に亡くなっている。
元治元年 一八六四年 現本堂過去帳開録 本堂の住職が座る傍らにある過去帳はこの時からになる。
四十二世 瑞善院日猛上人 (ずいぜんいん にちみょうしょうにん)
記録無  明治十五年 一八八二年 六月二十日に亡くなっている。
西区馬郡町にある東本徳寺二十五世として亡くなっている
四十三世 瑞潤院日竜上人 (ずいじゅんいん にちりゅうしょうにん)
加歴   明治元年(慶応四年) 一八六八年 三月十二日
浜北宮口恩光寺二十一世として亡くなっている。鶴見(町)鈴木○○の出身と有。
四十四世 瑞延院日宥上人 (ずいえんいん にちゆうしょうにん)
加歴 明治十一年 一六七八年 四月十四日に亡くなる。
掛川市大池にある宗心寺にて亡くなっている。
四十五世 瑞祐院日恭上人 (ずいゆういん にちきょうしょうにん)
在住二十一年 明治三十八年 一九〇五年 五月十八日に亡くなっている。
西区馬郡町の出身 明治二年入山 明治維新後、朱印上地(約百俵)を召し上げあられ、経営が困難と窮状を訴えている。
末寺 円頓寺・住行寺・鶴見 覚林庵を(明治十年)廃寺。
三十三世日運上人土蔵取壊し。
明治十四年 宗祖日蓮大聖人六百遠忌を奉修する。
明治時代を迎え急に寺院経営が悪化してきている。
明治十八年 一八八五年 門跡 村雲尼公御巡教。
明治十九年 備中高松より最上殿奉祀。
明治十四年宗祖六百遠忌奉修する。
明治二十二年浜北宮口恩光寺へ退隠 浜北宮口恩光寺二十五世として七十七歳で亡くなっている。
四十六世 三要院日軌(くさかんむりに軌)上人 (さんよういんにちきしょうにん)
在住四年 明治二十二年 一八八九年 七月入寺 明治二十五年十月四日に亡くなっている。
明治二十二年天竜川破堤大洪水。
本堂床に達す。泥が侵入。同二十五年大暴風雨の為、本堂ほか諸堂屋根大破。明治二十五年位牌堂牌座改革を計画する。
連年の天災大破を憂い、復興を見ずして十月、三十六歳にて亡くなる。
四十七世 高堅院日保上人 (こうけんいん にちほしょうにん)
明治二十五年十二月入山。在住四年にして明治二十九年愛知県額田郡・長満寺へ転住。明治三十二年 三十八歳にて亡くなっている。

和歌山県の出身。東京にて明治二十六年、金原明善・原田八弥が世話をし、伊藤博文・大隈重信その他の名士(他の記録には、渋沢栄一や当時の市川団十郎等の名もある)が姥ケ谷講中の取り持ちによって寄付金千円を集める(明善が出開帳を行ったとも言われている)

この資金を以て、明治二十二年に大破している本堂をはじめ諸堂の復旧工事を行いました。
住職の居間を作り、旧七面堂の用材を元にして位牌堂を建立(現在の前の位牌堂のこと)しました。

塔頭(たっちゅうと言い、大きな寺院の敷地内にあることが多く、高僧が隠退後に住んだ子院のことを指すことが多い。塔中とも書く。)が現妙恩寺周辺に四ヶ坊あったが、大善坊は福岡県八女郡。圓誠坊は圓誠寺と名を変え福岡県朝倉市へ移転。本乗坊は本乗寺と名を変え浜松市北区三方原町へ、完了坊は寛良寺と名を変え愛知県半田市へ移転。
寛良寺は榊原幸吉氏の土地の提供で移転したが、檀家等が無く無収入の為、妙恩寺四十八世の弟子日運(浜松市中区泉町 法光寺加歴)が定住するまでしばらく妙恩寺住職が兼務していた。このことは数年前、私が岩手県・遠野市で開かれていた声明師養成講習所にて研修中に半田・寛良寺の御子息・加藤信行上人(愛知県東海市 大教院住職)に教えて頂いた。
本乗寺は先々代等から聞いていたが、他寺は判らなかった。九州移転の記述しかなかった二ヶ寺は今回調査をして判明した。

この頃の妙恩寺は、天竜区二俣町鹿島の住行寺や前山・圓頓寺を廃寺とし支院・末寺を移転・整理してきたことがわかる。(東京 経王会は創始者が後の妙恩寺四十九世加歴となるも昭和二十年の戦災で焼失。浅草から多摩市へ移転し経王山大乗寺となっている。妙恩寺五十世は経王会三世)「跡地五反程を境内に編入し、会計整理の為、寺有地一町余りを十ヶ年賦賄として出す」との記載から苦しい状況がわかる。

ほぼ現在の妙恩寺の境内はこの時に確定したものと思われます。


四十八世 本行院日明上人 (ほんぎょういん にちみんしょうにん)
明治二十九年八月 和歌山県海南市・妙台寺から六十五歳にて、転住。在住十二年 明治四十年六月二日に亡くなっている。
和歌山県の紀伊藩士 旗本 江羅七郎左衛門七男。京都・妙顕寺日寿上人の弟子。

「天災疲弊頻々代代り寺録減少等、名宝伴わず時期に際会し寺門経営困難・・・。」
明治になり、廃仏毀釈等による時代の流れや天竜川の氾濫。住職の度重なる交代等により危機的な状況にあると始まった四十八世の代。
それでも、現在の庫裡の前にある築山はこの代に作られている。本堂の畳変えや襖替え次々と事業を進めています。

江戸時代には、米百俵の収入があり、一旦はゼロになるも、日明上人代には四十俵の収入まで回復している。
明治初年からの過去帳を見てきた私は、ある事に気がつきました。この頃から、檀家が増え始めているのです。
江戸時代に齋藤・村越等で増えて以来に増加の傾向が見られます。

高柳家等もこの頃に妙恩寺の檀家になっていますが、この頃の入檀してきた方達の理由が「明善さんの勧めにより」と言うのがなんと多いことでしょうか。
他宗寺院の檀家だった人達が、妙恩寺へ改宗・入檀しています。

こういったところで、寺院が安定化に向かっている様子が見て取れます。
明治四十年に本堂の天井からぶら下がっている天蓋(てんがい)を新調していますが、この当時に三百円かかっているものに高柳家が百円寄付との記載があり、築山も百余円とありますが、檀信徒の寄付等で賄われたのかもしれません。
身延山法主 日良猊下も来浜されたり、前代で作った借金千円中六百円を返す等の記載が晩年にみられ、一時の没落からは抜け出そうとしています。


四十九世 自我偈院日也上人 (じがげいん にちやしょうにん)
加歴 井上 日也(いのうえ にちや)と言い、日明上人の弟子。五十世兄弟子。東京経王会草創者 明治四十二年六月十七日に亡くなっている。
記録には、毎年の千部会に説教師として来講していたとある。
五十世 本照院日康上人(ほんしょういん にちこうしょうにん)
北原 観朗(きたはら かんろう)と言い、四十八世日明上人の十二名の弟子の末弟として和歌山県から随行してきている。
東京にいたが、兄弟子が還俗(僧侶の世界から普通の社会へ戻ること)したり、当時の金原明善等の熱心な勧めもあり、明治四十年七月に二十六歳にて妙恩寺に入寺されました。

檀信徒のみなさんが「きたはらのごぜんさん」と言うのは、この方の事です。

住職となった折の言葉でしょうか、「日明上人の御陰で建物等の復興の兆しが見えたが、こんどは明治維新以来閉じ込められていた信仰方面が、日露戦争と共に覚醒してきたようだ。」と述べられています。
幻灯機を購入し、映画を見せたり(当時不要になっていたお籠を処分して幻灯機を購入したことになっている。私が聞かされていた記憶では、ひとつは浜松市へもう一つは旅の芸人一座に売ったと聞いている。

妙恩寺六百年記念祭は、この住職の元で行われ、記念碑建設(現在山門前)。記念施本三千部。 初代住職日像上人曼荼羅複製を妙恩寺だけでなく末寺まで合わせて六百ほど授与している。
身延山法主 日慈上人を呼んだり、大学の先生を呼んだり、関東大震災への救助、天龍川町の御宮新築に当たっての寄付。末寺・妙蓮寺本堂改築補助だったり、かなり活発に活動をされていました。

昭和五年一月の日記には、明治四十一年住職になってから百戸の檀家が増え、三百五十三戸となったと書かれ、妙恩寺の基盤も安定してきた様子がうかがえます。

毎年毎年これでもかという活動を行っていましたが、その集大成は明善寺の建立に尽きると思います。
昭和九年に妙恩寺別院として創設されます。その時の号礼は、「人口十余万の浜松市には本宗寺院として法雲寺一ヶ寺あるのみ。近年当山檀家五十に達す宗門発展の為、当山将来の為、市南部へ第二妙恩山の基を開く」と。

明善寺は金原明善翁の遺徳顕彰の為に建てられたお寺です。十三回忌法要の際、次の十七回忌までに明善寺を建立したく、その時の手本となるように寺島町に小さく別院を建てました。
これが妙恩寺別院です。
聞くところによりますと、この願望を成功させる為に浜松駅前で布教活動をし、募金を募るのに妙恩寺からでは遠いので、その前線として設立されたようです。

昭和十一年の記録には、庫裡増築の理由が「方面委員事務所として」と残っています。
この願望は実現に向かって動き出します。金原治水財団より市内四ツ池の財団苗圃地の一部(一町二反歩)を境内地として永代無料貸与が約束され、寄付も集まってきましたが、戦前の宗教団体法は新寺の建立を許さない為、万策尽きて、小笠郡(現・掛川市)満勝寺塔中受源坊の寺号を移転し、その上で寺号を明善寺と改称、御堂の建築の認可が下りない為、やむなく妙恩教会を廃して明善寺とし、暫定的な天龍山明善寺の設立となったのです。

『天龍山 明善寺の寺歴』

(きたはらのごぜんさん)の日誌には、昭和二十年ころから急に字に勢いが無くなり、判読不能の文字もあるが以下のように書かれていた。

昭和九年建設発起せる明善寺は(支那)事変並びに戦争の為、建築不能となり。
昭和十八年浜松市幸町(浜松市中区幸町)に三千余坪の敷地を予定せんも、将来の建設の完成する迄暫定的に寺島町別院へ寺号を請くることとしなん。
四月、管長の上人を得、六月十九日に其の筋の認可を得たり
建設資金・寄(付)金・申込額 十三万三千余円に達し、収納金八万五千円を得、明善寺に移管す。しょうわ二十一年二月末日。
七月二十九日 浜松市戦災火災に依り、法雲寺 常住院等の全焼に対し当山は率先五百円を提供し、国内寺院檀信(徒)の協力を得て四千余円の義損を集め三ヶ寺の復興資金中に贈る。・・・。

もし、四ツ池に三千坪を超える明善寺が出来上がっていたら、現在の妙恩寺に匹敵する大きさを持つことになります。
この寺は、本堂等の建物の他に明善精神を伝承実現させる為の施設の併設が計画されていたようです。

妙恩寺在住四十一年。
かなり詳細な日記が残っていて、その事績はあまりに多く、檀信徒のみなさんに書面にてお伝えすることは不可能と思われるので、かいつまんでの文章になりましたが、若くして入寺され活躍された(きたはらのごぜんさん)は清い身体でいようと、闇食料に手を出す事が無かった為、次第に栄養失調になり昭和二十二年十月八日 六十六歳にて亡くなり、計画した明善寺は遂に実現しませんでした。


五十一世 本康院日清上人 (ほんこういん にっせいしょうにん)
五十三世の欄にまとめる。
五十二世 本時院日子上人 (ほんじいん にっししょうにん)
星野 春朗(ほしの しゅんろう)と言い東京神田の産。
五十世日康上人の弟子 昭和二十二年住職継承。
昭和三十五年四月二十三日 静岡池田 本山本覚寺へ入寺(五十五世)。
昭和三十八年十月十九日に亡くなっています。在住十三年。

そして現住職に至る

五十三世 本康院日清上人  (ほんこういん にっせいしょうにん)
山澤 英正(やまざわ えいしょう)と言い、明治二十八年一月十三日 愛知県海部郡甚目寺町萱津にて山澤佐吉、後の龍音院日栄上人(山澤照運)の子として産まれる。
日栄上人が愛知県・観音寺(現在不明)から浜松市浜北区にある恩光寺二十八世として入寺に伴ってやってくる。
最初は清鉦と言ったが、十四歳にて愛知県額田郡 長満寺住職 渡辺英明上人に剃髪を受け、明治四十三年に妙恩寺五十世 北原観朗上人の弟子となり、英正(えいしょう)と名乗るようになりました。
浜北区平口 妙蓮寺住職、周知郡森町 本立寺住職をへて昭和三十五年三月に妙恩寺住職となりました。

きたはらのごぜんさんが二十九歳で英正十五歳の弟子だったと言うことになります。
本人から聞いた話では、一番弟子であり二番弟子が五十二世の星野上人であったとのこと、これが五十一世と五十三世と二度の妙恩寺住職として名を残す理由の一つになったようです。

「毎日、森の本立寺から妙恩寺が燃えてないかどうか自転車で見に来たものだ。大田川を自転車をかついで渡ったのだ」
きたはらのごぜんさんの文字の勢い等から察するに、戦争が激化していた時期には、地元の弟子達が代わる代わる妙恩寺を守る為に動いていたようです。
私も小さい頃、以前の庫裡の座敷に焼夷弾が刺さった瓦が飾ってあったことを記憶しています。

特に七月二十九日の空襲はひどかったらしく、先に書きました法雲寺・常住院の全焼するなか、東海道本線の天竜川鉄橋を狙う艦砲射撃の流れ弾が妙恩寺の本堂屋根に穴を開けたのだと聞かされました。
こうした努力もあったのか妙恩寺本堂は焼けることなく残りました。
東京浅草経王会も全焼し、星野上人が浜松へやってこられます。
お寺は、その昔師匠から、弟子へとつながる事を慣行としてきました。

金原一族の中から住職が出ていた時代を経て、三十六世の日満上人以降四十五世のころまでは、日満上人の弟子の系譜でつながっている。
今は、四十八世日明上人の弟子の系譜でつながっていると考えられます。
日満上人の系譜は瑞○院とつきます。
日明上人の系譜は本○院とつきます。

四十八世日明上人は、和歌山から出られ妙恩寺住職になっていますが、この末弟としてきたはらのごぜんさんが和歌山からついてきています。
青年になり、東京へ出た折に兄弟子達が居た事は先にも書きました。
東京の系譜と浜松の系譜に分かれていたのでしょう。
話し合いが行われ、星野上人が静岡の本山へ栄転されることになり、山澤英正が再び妙恩寺住職になったようです。

日誌には、戦争・艦砲射撃・昭和十九年の地震・昭和三十四年の伊勢湾台風で歴代廟の松が倒れ、(以前常経殿の南にあった)七面堂の屋根を破損したりしたものが、そのままになっていて、合計十三棟の大修理を必要としていた。
昭和三十五年に、入寺して以来修復に明け暮れたと言うことが書かれている。

私が知るのは、最晩年です。
前回、お稚児さんを出した時に幼い私が代表で、「祭文」という文章を読むことになり、御隠居さんになっていた英正とマンツーマンで指導を受けた。
大池のほとりの廊下にて正座をさせられての練習。
小柄で九十歳にもなろうかという老人からこんな大きな声が出るものなのかという声。

「ちが~う!」

おかげで三十年経った今も「瑞雲たなびき春うらら~」頭の片隅に残っています。

後で聞くとすでに、声がほとんど出ない為に振り絞った為に、怒鳴り声のように聞こえたのだと言われました。
古い檀家さん達から、「英正さんは、坊さんらしい坊さんだった」と形容して言われますが、私には、

「わしは、浜松ではじめてバイクに乗ってお経周りをした坊さんじゃ。新聞にも紹介されたんじゃ」

と言い、夏でも火鉢の火をつけてお茶を飲んでいて、たばこの空き箱にチョコレートを詰込んでいる。
大池の錦鯉に餌をやり、当時あった「御前様の部屋」前にあった、ちいさな池にいる金魚達に餌をやっている。
いつ行っても「御前様の部屋」にいる。そんな住職にしか見えませんでしたが・・・。

昭和五十九年七月九日 九十歳にて亡くなりました。在住二十四年

五十四世 本法院日薫上人 (ほんぽういん にちくんしょうにん)
山澤 観正(やまざわ かんしょう)と言い、大正十年八月二十六日東京浅草に産。
後の静岡・世尊寺住職 依田海蓮上人の長男。慶一という。

昭和二十二年に五十三世日清上人の養子となる。
昭和二十五年慶一から観正へ改名。
昭和三十五年浜北区平口の妙蓮寺住職をはじめ世尊寺代務住職を務め、昭和五十八年妙恩寺住職になりました。
在住二十五年、他寺の住職を務めていながら、ほとんど妙恩寺にいたことになりますので、妙恩寺に居た年数は五十年近いということになります。

いついっても「御前様の部屋」にいた五十三世と違い、いついっても「いない」御前様の印象が強い住職でした。
その姿は、今は無い七面堂か檀信徒の家でした。

五十世の頃から比べて檀家数はほぼ倍に増えたにも関わらず、弟子は無く激務だったと思われます。
最初に五十三世と共に妙恩寺に入ってきた折は、檀家名簿なるものがなく、手さぐりで御経に周ったと言います。
御経を唱えて、最後にお題目「南無妙法蓮華経」と唱え始めると、自宅の方が飛んできて「家は日蓮宗じゃない!」と何度か言われたそうです。

戦争からの復興で、五十三世が修復を重ねたとはいえ、私の記憶では雨が降ると雨もりする本堂で、たらいを持って右往左往している御前様の姿を思い出すくらいになっていました。
庫裡も西区志都呂町にあったと言われる代官屋敷を移築したと言われ、趣きはありましたが、そこらじゅう隙間だらけでどこに居ても、本堂の木柾をたたく音が聞こえたものでした。

五十三世に対して「観正さんは動いていないと気が済まない坊さんだった。普請好きな坊さんでもあった」と言われます。
本人に聞いたところ、

「わしは普請好きではない、だれかがやらなきゃいけないから、それならわしの代で済ませておこうと・・・。」

たしかに動いていないと気が済まないのは本人も認めていました。その行動は黙々と淡々とこなすと言うことでした。

住職就任祝いとして(本人談)位牌堂を新築することから始まり、本堂・庫裡・山門・鐘楼堂・開山堂と次から次へと修復・新築を重ねました。
残す常経殿も計画を終え、準備万端に妙恩寺の七百年祭を自分の代でやると宣言していましたが、平成二十年七月四日 八十八歳にて亡くなりました。

五十五世 本覚院日英  (ほんがくいんにちえい)
現住職