徳川家康と妙恩寺

徳川家康公と妙恩寺はゆかり深く、少なくとも2回は妙恩寺に来た歴史があります。

家康公1回目の来訪元亀元年(1570年)

家康公が岡崎城から浜松城へ移られる時に、浜名湖北岸から井伊谷を通り現在の東区安間町を経由して妙恩寺を本陣・頭陀寺を脇本陣としています。井伊谷にて、後の徳川家重臣となる井伊家を味方につけた家康公でしたが、未だ今川家の力が残る浜松中心部へ直接入ることはできませんでした。すでに井伊家を味方につけていた家康公は浜松中心部へ入るべく更なる味方を探し始めます。

まずは、のちの井伊直政(徳川四天王)の母親であるひよが再婚して嫁いだ松下家(頭陀寺城)を味方につけました。これで北の井伊家、南の松下家(頭陀寺)から浜松中心部へ睨みを効かせます。残るは東側。東海道沿いにありそのまま西へ向かえば浜松城がある妙恩寺に白羽の矢が立ちました。立地の面はもちろんですが、もう一つの理由に日蓮聖人の父親が井伊家の出身とされており、そのつながりで日蓮宗である妙恩寺が選ばれたと言われています。(この為、日蓮宗では井伊家の家紋に使われる「井桁に橘の紋」を使用しています。)

日蓮宗の家紋の画像

日蓮宗

井伊家の家紋の画像

井伊家

このように、家康公は「井伊家」の力を借りて浜松城へ入ることとなりました。

家康公2回目の来訪元亀3年(1573年)

2回目の来訪は、三方原の戦いの前哨戦の一つ「一言坂の戦い」の撤退時に妙恩寺天井裏に隠れたと伝わっています。

武田信玄が浜松へ迫る途中、武田軍が袋井方面に来たと知らせを受けた家康公は本多忠勝等を引き連れ袋井と磐田の境あたりまで出陣しました。しかし、大挙して押し寄せた武田軍に勝ち目はないと悟り撤退することとなります。撤退の途中で見付宿では民が家を燃やし、煙幕を張ってくれて逃げる時間を稼いでくれましたが現在の磐田警察署付近で武田軍に追いつかれてしまいます。その追いつかれた場所から浜松へは下り坂で、現在の一言坂となります。

この坂で本多忠勝等が殿(しんがり)を引き受け、家康公が逃げる時間を稼ぎ、その間に家康公は天竜川を渡り東海道を西進し妙恩寺前までやってきます。 家康公としては、本多忠勝等部下達も心配であり、さらに浜松城まで引いて武田軍と相対するより一歩手前で押しとどめたい。その思いから家康公は浜松城ヘは帰らず、妙恩寺に逃げ込んできました。 当時の住職は武田軍の目を逸らすために家康公を本堂天井裏に匿いました。

寺伝によると、武田軍の先遣隊が妙恩寺にやってきて尋ねたが、住職は本堂で朗々とお経を読んでおり相手にされず、各お堂を見て回ったが家康公を見つけることなく撤収していったと記されています。

武田軍が帰ったあと、未だに味方と合流できずおなかを空かせているだろうと思い、住職が天井裏にいる家康公にお粥を差し入れました。 家康公はお粥が入った「お椀」と「お箸」を受け取り、平らげたうえでお椀とお箸を寺紋とするように住職に言い伝えました。

妙恩寺付近にて本多忠勝を待つ徳川家康

妙恩寺付近にて本多忠勝を待つ徳川家康の画像

当時の妙恩寺は東海道沿いに総門を構え、現在より広い土地を持っていました。妙恩寺山門にたどり着くまでは4つの門を経由しなければならず、さしずめ出城のようでした。昔の絵図を見ると妙恩寺の南にあたる現在の天竜川駅付近は芳川からの入り江になっており、船で脱出し頭陀寺方面まで行くことができるようになっていました。

妙恩寺の寺紋

妙恩寺にはこの時の美談が残されています。

家康公を匿ったのは妙恩寺11代目住職の日豪上人でした。実は日豪上人は武田四天王とも言われる馬場信春の末子で、妙恩寺へやってきた先遣隊の武田軍は父親の兵だったのです。家康公を父親に差し出す事もできました。

しかし、僧侶になっていた日像は「仏の前に敵味方の区別なし」と言われていたため、家康公を匿い続けたのです。後に、この功績から妙恩寺は江戸幕府から朱印が交付され安堵されることとなりました。

日像上人はその後、浜松城近くに隠居寺(現在の法雲寺)を与えられ、家康公と囲碁を指す仲だったと伝えられています。

江戸幕府から交付された朱印

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